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履き違えない

夜。


連合商務調整局本部、統括官室。


灯りは落としていない。

だが、部屋の中に人の気配はない。


書類はすべて片づいている。

机の上も、いつも通りだ。


それでも――

ルーカスは、椅子を立たなかった。


背もたれに体を預け、脚を組む。

指先でペンを転がしながら、視線だけが、机の端に落ちている。


昼間。

エルフリーデが、書類を置いていった場所。


今は、何もない。


「……」


小さく息を吐く。


(……もう、用はない)


確認は終わった。

決裁も済んだ。

彼女を呼び止める理由は、どこにもない。


それなのに。


(……会いたいな)


思考は、抵抗なくそこへ落ちた。


否定しない。

否定する段階は、とうに過ぎている。


「……困った」


低い声で、独り言。


(声を聞きたいだけで、ここまで残るとは)


自分でも、少し可笑しい。


昔なら、こんな時間は切り捨てていた。

感情と判断は、きちんと分けられていた。


――分けられていた、はずだ。


「……変わったな」


呟きは、静かで、どこか甘い。


脳裏に浮かぶのは、彼女の横顔だ。


仕事中の、感情を削いだ表情。

資料を差し出す時の、迷いのない指先。


それから――

ほんの一瞬、気を抜いたように笑った、あの顔。


「……」


喉の奥が、わずかに熱を持つ。


あれは、誰にでも向けるものじゃない。

少なくとも、自分はそう思っている。


(……あの表情を)


(僕以外が、知る?)


想像した瞬間、胸の奥で、冷たいものが静かに蠢いた。


「……嫌だ」


声は荒れない。

感情も、表に出ない。


ただ、許容できないという事実だけが、はっきりと残る。


(嫌だ)


(それだけは、譲れない)


自分の中にある独占欲を、淡々と自覚する。


(……ああ)


(これは、思っていたより深い)


苦笑が浮かぶ。


だが、不快ではない。

むしろ、不思議なほど落ち着いている。


「……先の話だな」


ぽつり、と零れた言葉に、

自分で一瞬だけ驚いて、視線を伏せる。


「……いや」


すぐに首を振る。


(早い)


(今は、まだ)


(彼女が“選んだ場所”に、僕が立っているだけだ)


そこを履き違えた瞬間に、

すべてが壊れることを、よく分かっている。


だが。


(……それでも)


(他の未来を、考える余裕がない)


立ち上がり、窓辺に立つ。


夜の連邦の街が、静かに光っている。


(彼女が、ここに立つと決めた)


(なら)


(……僕は、離れない)


宣言ではない。

誓いでもない。


ただの、事実確認だ。


「……明日から」


低く、穏やかな声。


(急がなくていい)


(言葉にしなくていい)


(でも――)


(彼女が戻れなくなるほど、大切にすればいい)


気づかれない程度に。

選ばされたと思わせない形で。


口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


それは甘さでも、威圧でもない。

理性を被った、覚悟の表情だった。


「……大丈夫だ」


誰に向けた言葉でもなく。


「君が選んだ場所で、最後まで、責任を持つ」


その言葉だけが、

夜の執務室に、静かに沈んでいった。

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― 新着の感想 ―
あけましておめでとうございます。 〈極めつけに優秀な元王女〉って、場合によっては暗殺される事も有り得るわけですか。 世知辛いですね。 公爵家入りは順当ではあるでしょうけど、追放され自由になったあとも…
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