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名前が変わっただけ

シュトラール公爵家の養子としての手続きが、正式に完了してから、数日が経っていた。


朝の執務棟は、相変わらず同じように動いている。


書類の束を抱えた職員が行き交い、廊下の端では小さな議論が交わされている。

紙の擦れる音。足音。誰かが急ぐ気配。

音も、匂いも、忙しなさも――以前と、何一つ変わらない。


それなのに。


エルフリーデは、足を踏み出すたびに、微かな違和感を覚えていた。


「……おはようございます」


いつも通りに声をかける。

すると、数人が、ほんのわずかな間を置いてから応じた。


「おはよう、ございます」

「本日も、よろしくお願いします」


言葉は丁寧だ。

失礼はない。むしろ、形式としては正しい。


だが、その正しさが――昨日までとは違っていた。


(……距離が、できた)


避けられているわけではない。

嫌悪でも、敵意でもない。


ただ、明確な線が、一本引かれた感覚。


通路を進みながら、無意識に視線が名札へ落ちる。


――エルフリーデ・フォン・シュトラール。


公爵家の姓。

何度も書いて、何度も確認して、提出した名前。


それでも、まだ実感が追いつかない。


(……住む場所は、変わらないのに)


割り当てられた部屋は、これまでと同じ連合商務調整局の宿舎だ。

ただし、一般職員の区画ではない。


出入り口は一つ増え、夜間の巡回は倍になった。

廊下の角には、見慣れない警備員が立つようになり、

部屋の鍵も、二重になっている。


家具も、広さも、生活の不便さも、ほとんど変わらない。

それでも――ここはもう、以前の場所ではなかった。


公爵令嬢になったからといって、暮らしが一変したわけではない。

だが、守られ方だけは、明確に変わっている。


変わったのは、紙の上と、人の目と、警備の厚みだ。


そう言い聞かせて、エルフリーデは歩を進める。



執務室に入ると、机の上にはすでに書類が整えられていた。


「こちら、本日の分です」


差し出された束を受け取り、エルフリーデは一瞬だけ瞬きをする。


「ご判断を、お願いします」


言い直しはない。

自然に出た言葉だった。


(……前は、“確認”だったのに)


内心でそう思いながら、表情は変えない。


「ありがとうございます。目を通します」


椅子に腰を下ろし、書類をめくる。


航路調整。

関税の再確認。

揉めかけている二国間の温度調整。


内容そのものは、これまでと変わらない。

連邦でやってきた仕事、そのままだ。


だが、最後のページに添えられた一文で、指先が止まる。


――最終判断は、シュトラール家預かりとして記録。


(……ああ)


個人の裁量ではない。

判断は、家の名の下に置かれる。


守られているとも言える。

同時に、切り離せなくなったとも言える。


(合理的ね)


そう結論づけて、続きを読み進める。



昼前。


廊下で、以前よく雑談していた同僚とすれ違った。


一瞬、目が合う。


相手は、ほんのわずか迷うように視線を泳がせてから、軽く頭を下げた。


「失礼します」


それだけ言って、通り過ぎていく。


足音が遠ざかってから、エルフリーデは小さく息を吐いた。


(……立場が、変わっただけ)


何度目か分からない言い訳。


それでも、胸の奥に残るのは、言葉にしきれない違和感だった。



午後。


ルーカスの執務室に、定例報告を持って入る。


「失礼します」


「どうぞ」


いつもと変わらない声。


机の前に立ち、資料を差し出す。


「こちら、先ほどの調整案件です」


「ありがとう」


受け取る手つきも、視線も、以前と同じだ。


「判断は?」


「この条件であれば、問題ありません」


「了解。じゃあ進めよう」


即断。


そこには、余計な敬語も、距離もない。


エルフリーデは、室内の空気を一度だけ意識した。


(……変わらないのは、ここだけ)


周囲がどう変わろうと、ルーカスだけは、昨日と同じ位置にいる。


それが、なぜか少しだけ――胸に残る。


「……?」


「いえ、何でもありません」


視線を逸らし、首を振る。


「他に必要なことがあれば、呼んでください」


「うん、頼むよ」


それだけで、会話は終わった。



夕方。


宿舎の部屋に戻る。


公爵家の屋敷ではない。

迎えも、侍女もいない。


ただ、廊下の警備員が、確実に顔を覚えている。


部屋に入ると、机の上に一通の封書が置かれていた。


封蝋に刻まれた、シュトラール家の紋。


それを見て、ようやく現実が追いつく。


椅子に腰を下ろし、しばらく天井を見上げた。


(……名前が変わっただけ)


(仕事の内容は、ほとんど同じ)


(責任が、少し重くなっただけ)


言葉にすれば、それだけだ。


でも。


(世界の方が)


(私を、別の場所に置いてしまった)


静かに息を吐く。


怖くはない。

後悔もしていない。


ただ――


(……戻れないのね)


そう理解した、その瞬間。


胸の奥で、何かが静かに定まった。


窓の外では、連邦の街が、今日もいつも通りに動いている。


その中で。


エルフリーデ・フォン・シュトラールは、

変わらない場所に立ちながら、

確かに、別の立場を生き始めていた。

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…ありのままの感想など言う。 そのまま『芯』のある生き方を。 なんてね、あ、…にゃ。
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