事務仕事は海も越える
三等客用の船室は簡素だ。
木の寝台と、小さな棚が一つあるだけ。
だが、不満はなかった。
移動できて、目的地に着けば、それで十分だ。
ほどなくして、船内に声が響く。
「――出航前の確認だ。身分証と通行証を用意してくれ」
ざわり、と空気が動く。
乗客たちは一斉に荷を探り始めた。
エルフリーデも革袋を開き、
一枚の紙束を取り出す。
王宮発行の通行証。
国外追放者用の、簡易なものだ。
肩書きはない。
名前と、出国先、期限だけ。
かつて外交で使っていた身分証とは、
比べものにならないほど簡素だった。
部屋に入ってきた係官は書類を受け取り、ちらりと目を走らせる。
「……通商連邦行き、三等か」
声に、特別な感情はない。
「はい」
それだけ答える。
係官は何も言わず、
無造作に印を押して返した。
それで終わりだ。
疑われることも、
引き止められることもない。
――ああ、もう。
王女ではないのだと、
改めて実感する。
けれど、不思議と胸はざわつかなかった。
必要な書類が揃っていれば、
それで通る。
そういう扱いの方が、
今は、楽だった。
エルフリーデは通行証を革袋に戻し、そのまま甲板へ向かった。
潮風に当たりながら、船内を歩いていた、そのときだった
通路の先、食堂の脇に置かれた簡易の事務机。
その上に、書類が広げられたままになっている。
風にあおられ、紙の端がばさりと揺れた。
インク瓶とペンも、置きっぱなしだ。
――片付け忘れ、かしら。
そう思って視線を逸らしかけて、止まった。
数字が、合っていない。
積荷目録の合計と、横に置かれた契約書の数量が一致していない。
さらに目を凝らすと、港湾ごとの単位が一つだけ混ざっている。
「……あ」
小さく、息が漏れた。
見なかったことにする、という選択肢も頭をよぎる。
けれど、これは――
出航後に発覚すれば、厄介な類の問題だ。
エルフリーデは一瞬だけ迷ってから、近くを通りかかった船員に声をかけた。
「すみません。この書類、どなたか確認されていますか?」
船員は足を止め、机の上を覗き込み、首を傾げる。
「いや……今朝、船長が途中まで見てたはずだが……」
「そうですか。…その、差し出がましいようですが…」
エルフリーデは一度だけ頷いた。
「この数量、港の基準が混ざっています。このままだと、積み過ぎになります」
船員は一瞬、意味が分からないという顔をした。
次の瞬間、目を見開く。
「……何だって?」
慌てて書類を手に取り、確認し始める。
しばらくして、顔色が変わった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……!」
そのまま、船員は船長室へ駆けていった。
エルフリーデは、それを見送ってから、
そっと机から離れた。
自分がするべきことは、もう終わった。
――余計なことをしたかしら。
そう思いながら甲板に戻ると、ほどなくして怒号と指示が飛び交い始めた。
積荷の一部が降ろされ、帳簿が書き直され、出航が少しだけ遅れる。
騒ぎの中心に、エルフリーデはいない。
ただ、甲板の隅で手すりに指をかけ、広がる海を眺めていただけだ。
やがて、船長がこちらに気づき、近づいてくる。
日に焼けた顔には、まだ緊張の色が残っている。
「……あんた」
「はい?」
「さっきの書類、気づいたのはあんただな?」
「偶然、目に入っただけです」
事実だった。
「助かったよ。あれは、出航してからだったら、違約金じゃ済まなかった」
エルフリーデは、少しだけ首を傾げる。
「そういうもの、ですか?」
「そういうものだ」
船長は短く息を吐いた。
「通商連邦行きはな、書類一つで、違約金が発生するんだ。積み荷が止まって、契約が切れて、次の取引も全部飛ぶ。」
その言葉に、エルフリーデは小さく納得する。
――なるほど。
罰則が先に決まっていて、例外が許されない。
だから、最初から確認事項が多い。
だから、事務仕事が増える。
「……でしたら、私ができる仕事もあるかもしれませんね。」
船長は怪訝そうな顔をしたが、エルフリーデはそれ以上、何も言わなかった。
やがて、船は出航する。
港が遠ざかり、視界いっぱいに海が広がっていく。
机の上だけで完結するものだと、どこかで思っていた。
けれど――
事務仕事は、国境も、海も、越えていく。
それをエルフリーデは、初めて実感していた。




