印
その日の夜。
宿舎へ続く道は、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。
石畳は昼の熱をまだわずかに残し、街灯の光が、等間隔に影を落としている。
二人並んで歩くが、昼とは違う。
人の視線も、店の喧騒もない。
聞こえるのは、足音と、遠くの街の気配だけだ。
エルフリーデは、無意識に首元へ手をやった。
昼に選んだネックレスが、まだそこにある。
服屋と宝石店を出たあと、そのまま着けていたものだ。
(……忘れていたわ)
外すタイミングはいくらでもあった。
だが、気づけば、そのままここまで来ている。
「今日は……ありがとうございました」
先に口を開いたのは、エルフリーデだった。
「服も、宝石も。本来なら、自分で何とかするつもりでしたのに」
事実だ。
そのために、必要最低限の金も持ってきていた。
――なお、会計の段階で、すべて無言で退けられたが。
「必要な準備だよ」
ルーカスは、いつも通りの声で答える。
だが、歩幅が、ほんのわずかに遅い。
「公爵家の招請だ。君が恥をかく可能性は、最初から潰しておく」
理屈は、完璧だった。
エルフリーデは、小さく笑う。
「……本当に、合理的ですね」
「そう言われることには慣れてる」
軽い返し。
だが、言葉が、そこで途切れた。
宿舎の前に、着いてしまったからだ。
玄関灯が、柔らかく二人を照らす。
ここで別れる、それだけの場所。
――それだけの、はずだった。
「では……」
エルフリーデが、一礼しようとした、その時。
「……あ」
ルーカスが、思わず声を漏らした。
自分でも驚いたように、言葉を止める。
少し間が空く。
「……いや」
取り繕うように、喉を鳴らす。
「そのネックレス」
エルフリーデは、首元に触れる。
「はい?」
「しばらく、そのまま着けていてほしい」
あまりにも自然な口調だった。
命令でも、強要でもない。
――だからこそ。
エルフリーデは、首を傾げる。
「……理由を、伺っても?」
ルーカスは、すぐに答えなかった。
一瞬だけ、視線を逸らす。
街灯の向こう、暗がりへ。
「いくつか、ある」
理屈を選んでいる声音だった。
感情ではなく、
経験と計算から引き出されたものだと分かる。
「特別な時だけ着けると、“背伸びしてる”って思われる」
軽く言うが、社交の場では致命的になり得る指摘だった。
「普段から着けてる方が、ああいう物は“その人の標準”になるんだ」
――一つ目。
見せびらかすためではない。
“元からそこにいる人間”として認識させるための理屈。
少し間を置いて、ルーカスは次を続けた。
「慣れてない人はね、どうしても一瞬、気にする」
視線が落ちる。
指が触れる。
無意識の癖。
そういう些細な挙動を、公爵は見逃さない。
「顔合わせ中に気になるそぶりを見せるのは、あまり良くない」
――二つ目。
装飾品の問題ではない。
場に対する“慣れ”をどう見せるか、という話だった。
「それから……」
言いかけて、止まる。
ほんの、わずかな間。
「……紛失防止だ」
最後に、付け足すように。
エルフリーデは、数秒考えた。
どれも、筋は通っている。
少なくとも、仕事としては。
「……分かりました」
頷く。
「外さないようにします」
その返答を聞いた瞬間。
ルーカスの胸の奥で、静かに何かが落ち着いた。
――最低限。
ルーカスの色を、彼女が身に着けている。
それだけでいい。
それ以上を望めば、踏み越える。
「ありがとう」
短く言う。
それ以上、言葉を重ねない。
エルフリーデは、扉に手をかける。
「では、おやすみなさい」
「……おやすみ」
扉が、閉まる。
灯りが、遮られる。
一人になった夜の空気の中で、ルーカスは、しばらくその場を動かなかった。
(……帰したくなかったな)
思ってから、自分で苦笑する。
それは、上司としても、統括官としても、
許されない感情だ。
だが。
首元に、自分の選んだものを残したまま、
彼女は、扉の向こうへ消えた。
それだけで。
「……今日は、これでいい」
小さく呟き、踵を返す。
胸の奥に、確かな余熱を残したまま。
明日から、また“制度”と“立場”の話が続く。
だが今夜だけは。
ほんの少しだけ、
別れを惜しんだ自分を、見なかったことにした。




