そういえば
宿舎の灯りは、最低限だった。
机の上に置かれた書類は、すでに整理されている。
明日の業務に必要なものも、揃っている。
それなのに、エルフリーデは、椅子に腰掛けたまま、動けずにいた。
(……養子縁組、か)
口に出すと、現実味が増す気がして、胸の内で反芻するだけに留める。
シュトラール公爵家。
連邦内でも、名を知らぬ者はいない名門。
そこに「迎えられる」という言葉の重さは、理解している。
庇護ではない。
救済でもない。
(立場、ね)
ルーカスの言葉が、はっきりと思い出される。
――個人として切り捨てられなくするための制度。
つまり。
(私は、もう「軽い存在」ではいられなくなる)
判断をすれば、結果が家に返る。
失敗すれば、自分一人では済まない。
それは、怖い。
だが、同時に思った。
(……逃げられない、というほどでもない)
不思議と、思った。
逃げ道が消える感覚は、なかった。
代わりにあるのは――覚悟を問われている、という感触だ。
王宮にいた頃は、違った。
判断はしていた。
責任も、背負っていた。
けれど、それは「名前のない責任」だった。
誰のものでもなく、誰にも見えず、誰にも守られない。
(今は)
今は、違う。
名前がある。
立場がある。
そして――前に立つ人がいる。
(……ルーカス様)
思い浮かんだ瞬間、胸がわずかにざわつく。
統括官。
上司。
それ以上でも、それ以下でもない。
――はずなのに。
自分が「残る」と言った時の、あの一瞬。
感情を抑え込むように目を伏せた、あの仕草。
(……あれは)
考えすぎだ、と切り捨てる。
今は、仕事の話だ。
これは、政治だ。
感情を混ぜる場面ではない。
それでも。
(公爵家、か)
ふと、現実的な問題が浮かぶ。
(……何を、着ていけばいいのかしら)
自分の持ち物を、思い返す。
王宮にいた頃の服は、処分された。
今あるのは、実務向けの簡素なものばかり。
格式ある家の正式招請。
相手は、シュトラール公爵家。
(……場違い、よね)
苦笑が漏れそうになる。
社交界から離れて久しい。
誰かと服を選ぶ、という経験も、ほとんどない。
(友人、も)
考えて、気づく。
一緒に行ける相手が、いない。
仕事仲間はいる。
だが、そういう話を振る関係ではない。
一瞬、迷いがよぎる。
それから。
(……あ)
自然に、名前が浮かんだ。
(ルーカス様、しかいないのかしら)
理由は、明確だ。
立場を理解していて、公爵家の空気を知っている。
そして――断られない、という確信がある
それに。
(……逃げ道も、示してくれた人ですし)
小さく、息を吐く。
決めた。
これは、甘えではない。
業務上、合理的な判断だ。
そう、胸の内で整理してから、エルフリーデは椅子の背に手を置き、静かに立ち上がった。




