幕間 最悪手
夜更け。
王宮の奥、国王執務室には、まだ灯りが残っていた。
だが、そこにいる男は、もはや“王”の姿をしていない。
玉座には、座っていない。
そもそも、そこまで歩く気力がない。
机に向かい、背を丸め、両肘をついたまま、動かずにいる。
書類は、机の上に積まれている。
だが、整理されてはいない。
どれも途中で止まり、途中で投げ出され、途中で判断を放棄されたものばかりだ。
国王は、それらを見ていなかった。
ただ、視線だけが、どこか虚ろに宙を漂っている。
白髪が、明らかに増えた。
数か月前までは、まだ黒が勝っていたはずの髪だ。
今は、触れれば指に絡みそうなほど、無造作に乱れている。
「……」
喉が鳴る。
だが、声にはならない。
ここ数日、まともに眠れていなかった。
眠ろうとすると、書類の文言が浮かぶ。
評議会の沈黙が、脳裏に蘇る。
――“前提条件の再整理”。
あの言葉が、何を意味するか。
分からないほど、愚かではない。
第一王女セラフィーナは、制御不能だった。
王妃の命で、社交行事からは外された。
表向きは「静養」。
実態は、自室待機という名の軟禁だ。
夜会の招待状は、もう届かない。
彼女の名前は、席次表から消えた。
社交界は、残酷なほど正直だった。
一度“使えない”と判断された駒は、
最初から存在しなかったかのように扱われる。
第一王子レオナルトも、同様だ。
視察の失敗。
報告書の薄さ。
地方からの抗議。
それらが、積み重なった結果。
評議会では、すでに
「現行体制を前提とした議論」が、避けられ始めている。
王位継承、という言葉は使われない。
だが代わりに、こう言われる。
――「今後を見据えた整理が必要では?」
それが、何を指すか。
国王には、痛いほど分かっていた。
王妃は、ここ数日、床に伏す時間が増えた。
医師は「過労」と言った。
だが、それだけではない。
息子の不調。
娘の失態。
王宮全体に漂う、不穏な空気。
それらすべてが、彼女の体力を削っている。
そして。
第一王子の婚約者、ミレーネ。
彼女の実家――
あれほど熱心だった書簡が、ぱたりと止まった。
代わりに届くのは、
儀礼的で、冷たい、距離を測るような文面。
――様子を見たい。
――状況を注視したい。
要するに。
「今は、関わりたくない」
そう、言っている。
国王は、両手で顔を覆った。
「……なぜ、こうなった」
誰に問うでもない。
答えは、分かっている。
だが、それを口にするには、あまりにも遅すぎた。
王宮は、静かに、だが確実に、傾いていた。
崩壊ではない。
まだ、形は保っている。
だからこそ、余計に質が悪い。
誰もが、「戻せる」と思っている。
誰もが、「少し手を入れれば立て直せる」と信じている。
――ただ一人、国王だけが。
それが、もう過去の話だと、薄々理解し始めていた。
彼は、ゆっくりと顔を上げる。
机の端に置かれた、一通の報告書。
連邦。
商務調整局。
第三王女エルフリーデ。
「……」
唇が、わずかに動く。
呼び戻せば、元に戻る。
戻せば、歯車は噛み合う。
そう信じたい。
だからこそ。
国王は、使節団を送った。
それが、
王国としての“最悪手”であるとも知らずに。




