身分
その言葉を、ルーカスは否定しなかった。
一瞬だけ、目を伏せる。
それは感情を整えるための、ほんの短い間だった。
「……分かった。」
声は低く、落ち着いている。
先ほどまでの張り詰めた空気が、わずかに変わる。
「じゃあ、ここからは“選択”の話じゃない。」
机の端に手を置き、ルーカスは続けた。
「制度の話をする。」
エルフリーデの表情が、わずかに引き締まる。
それが何を意味するか、理解したからだ。
「今の君は、連合商務調整局の臨時調整責任者だ。肩書きとしては十分だが――交渉の場では、まだ“個人”として扱われる。」
淡々とした説明だった。
「つまり、相手国にとってはこうだ。」
言葉を区切り、視線を一度だけ書類に落とす。
「不都合になれば、切り捨てられる。」
脅しではない。
事実の提示だった。
「国家でも、家でもなく、“優秀な個人”だからだ。」
エルフリーデは、黙って聞いている。
「サルヴァトールの提案は、その弱点を突いている。保護、報酬、身分保証――全部、“個人を囲う”ための仕組みだ。」
そして。
「ヴァルディスは、逆だ。個人である限り、合法的に手を伸ばせると判断している。」
二つの国のやり口を、並べて置く。
「どちらも、間違っていない。今の君の立場が、そういう位置にあるというだけだ。」
ルーカスは、そこで初めて一枚の書類に触れた。
だが、まだ開かない。
「これを止める方法は、二つある。」
エルフリーデが、静かに息を呑む。
「一つは、役職を積み上げること。だが、それには時間がかかる。世界は待たない。」
もう一つ。
「交渉単位を、変える。」
言い切るように告げる。
「個人ではなく、家として扱わせる。切り捨てれば、連邦と、後ろに立つ家と、同時に摩擦が起きる状態にする。」
それは、守るというより、
“触れなくする”ための構造だった。
「そのための制度が、養子縁組だ。」
エルフリーデは、すぐには口を開かなかった。
だが、驚いた様子はない。
「貴族への養子縁組は、地位を飾るためのものじゃない。」
ルーカスは、淡々と言葉を選ぶ。
「交渉の場で、君を“個人案件”として扱わせないための制度だ。」
一度、説明を区切る。
「今の君は、優秀だが、あくまで“個人”だ。不都合になれば、国も家も切り離して処理できる。」
事実として告げる。
「養子になれば、それができなくなる。」
視線が、静かに重なる。
「君は、家の一員になる。君に触れれば、その家と、連邦の調整構造そのものに触れることになる。」
だからこそ。
「守られる立場になる。ただ、同時に、家の名を背負って判断する側にもなる。」
逃げ道は、確かに減る。
だが――
「“消される”という選択肢は、ほぼ消える。」
ルーカスは、最後にそう言った。
「君がこれからも、判断を任される立場でい続けるなら――
どこかで必ず、“個人のままでは立てない線”を越える。」
視線が、静かに重なる。
「それが今だ。」
だから。
「次に切る札は、重い。でも、それは君を縛るためじゃない。」
声は、低く、揺れない。
「君が、最後まで“判断する側”でいるための位置だ。」
説明は、そこで終わった。
説得もしない。
急かしもしない。
エルフリーデは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……つまり。」
確認するように。
「その立場に立てば、私はもう“個人”として扱われない。」
「そうだ。」
即答だった。
「交渉の場で、君一人を切り離すことはできなくなる。」
それは、盾であり、
同時に、退路を削る楔でもある。
エルフリーデは、視線を落とし、考える。
だが、その沈黙は短かった。
「理解しました。」
顔を上げる。
「それが、今後も仕事を続けるために必要な制度なら。」
言葉を選びながら、続ける。
「私は、その前提で話を聞きます。」
受諾ではない。
拒否でもない。
“判断する立場”としての返答だった。
ルーカスは、わずかに息を吐く。
「……ありがとう。」
それは感謝ではなく、
説明が通じたことへの確認だった。




