甘い勧誘
連合商務調整局本部。
もうすぐ昼になる時間。
廊下は、いつも通り忙しない。
書類を抱えた職員が行き交い、短い会話が交差する。
エルフリーデは、次の会議資料を抱えて歩いていた。
「……エルフリーデ様。」
呼び止められたのは、聞き慣れない声だった。
振り返ると、調整局の職員ではない人物が立っている。
来賓用の身分証を提げ、身なりは良い。
その衣装に施された装飾が、南方諸国特有の意匠であることを、エルフリーデは一目で理解した。
男は、わずかに距離を保ったまま、優美な所作で一礼する。
「私、サルヴァトール商業共和国の外交担当、ザヒール・イブン・ナディールと申します。」
その名に、覚えがあった。
(……商業共和国の“表”の窓口)
交渉と保護を切り分け、
圧ではなく条件で人を囲い込むことで知られる国。
男の笑みは柔らかい。
だが、その柔らかさ自体が、武器だと分かる。
「少しだけ、お時間よろしいでしょうか。」
断れない言い方だった。
だが、強制でもない。
(……また、ね)
エルフリーデは、内心でそう思いながら、静かに頷いた。
通されたのは、来客用の小さな応接室だった。
男は腰を下ろすと、資料も出さず、穏やかに切り出す。
「非公式です。記録にも残りません。」
前置き。
だが、今回は分かりやすかった。
「最近、あなたの名前が、外でも頻繁に出ています。」
評価でも、探りでもない。
事実確認のような口調。
「ご存じの通り、現在の立場は“臨時”ですね。」
エルフリーデは、否定しない。
「ええ。」
「それでも、すでに十分な結果を出している。」
ゆったりと、男は続ける。
「正直に申し上げます。」
声音が、さらに柔らかくなる。
「このままでは、あなたは“板挟み”になります。」
脅しではない。
予測だ。
「連邦は守ろうとする。一方で、外は引き取りたがる。」
両手を軽く広げる。
「優秀な人ほど、消耗します。」
それは、エルフリーデ自身がよく知っている話だった。
「ですから。」
静かに、核心に入る。
「今なら、選べます。」
エルフリーデは、指先を軽く重ねた。
「……何を、でしょうか。」
相手は、迷いなく答える。
「“安全な居場所”です。」
甘い言葉だった。
だが、曖昧ではない。
「十分な報酬。身分保証。政治的圧力の遮断。我々には、それを提供する準備があります。」
一つずつ、数えるように。
「あなたは、調整の仕事だけしてくださればいい。」
責任は、上が取る。
面倒な交渉も、盾も、すべて用意する。
「これは引き抜きではありません。」
穏やかに、しかしはっきりと。
「“保護”です。」
エルフリーデは、しばらく黙っていた。
その言葉の意味を、正確に理解していたからだ。
――檻だ。
柔らかく、快適で、壊れにくい。
そして、一度入れば、
自分から出る理由を失わせる檻。
「返答は、急ぎません。」
男は立ち上がる。
「ただ、選べる時間は、そう長くはない。」
扉の前で、一度だけ振り返る。
「賢い方なら、お分かりでしょう。」
“今が一番、きれいに出られる”。
そう言わずに、そう告げていた。
扉が閉まる。
応接室に、静けさが戻る。
エルフリーデは、しばらくその場に座っていた。
(……確かに)
理想的だ。
安全で、合理的で、誰も傷つかない。
でも。
(そこには)
ふと、思い浮かぶ。
判断の前に立つ人。
責任を引き受けると言った背中。
逃げ道を示した上で、選ばせようとした視線。
(……仕事をする場所、ね)
立ち上がり、窓の外を見る。
連邦の建物が並ぶ、見慣れた景色。
ここは、安全ではない。
だが。
(“立っていい場所”だった)
守られる場所ではなく、判断を引き受ける場所。
エルフリーデは、ゆっくりと息を吐いた。
答えは、もう出ていた。
――あとは、伝えるだけだ。
彼女は資料を抱え直し、応接室を後にする。
廊下の喧騒が、再び耳に戻る。
数日後の朝。
あの部屋を、もう一度訪ねることになる。
それが、何を意味するかを理解したまま。




