私はどうしたい?
夜。
連合商務調整局付属の職員寮は、ひどく静かだった。
廊下を行き交う足音もなく、どこかの部屋から聞こえるはずの生活音もない。
規則正しく配置された灯りだけが、一定の距離を保って点いている。
豪華ではない。
だが、粗末でもない。
最低限ではなく、「十分」と言えるだけの設備。
施錠は厳重で、警備の巡回も決まった時間に行われる。
――守られている場所だ。
エルフリーデは、窓辺に立ち、外の灯りを見下ろしていた。
港の方角に連なる光。
規則正しく並ぶ建物の輪郭。
どれも、落ち着いた秩序の中にある。
(……いつから、ここに居るのが当たり前になったのかしら)
問いは、自然と浮かんだ。
最初は、仮住まいだった。
身元保証が整うまでの、一時的な措置。
そう説明され、深く考えもせずに頷いた。
その時は、ここも通過点の一つに過ぎないと思っていた。
だが、気づけば。
荷物は少しずつ増え、持ち込んだ書類は整理され、机の上には、いつもの配置ができている。
必要最低限だったはずの部屋は、
いつの間にか「自分の生活」を受け入れる形を持ち始めていた。
仕事から戻り、鍵を開け、灯りを点ける。
外套を外し、机に書類を置き、明日の予定を頭の中でなぞる。
それが、日常になっていた。
(……逃げてもいい、と)
ふと、ルーカスの言葉が蘇る。
逃げる。
別の国。
別の場所。
選択肢としては、確かに存在する。
危険を承知で、別の庇護を選ぶこともできる。
けれど。
(行きたい、とは……思わなかった)
その事実に、静かに気づいてしまう。
連邦だからだろうか。
安全だからだろうか。
仕事があるからだろうか。
どれも理由にはなる。
だが、どれも決定打ではない。
ここでは――
仕事をする時、必ず線を引いてくれる人がいる。
判断をした後、前に立つ人がいる。
責任を押しつけず、功績を奪わず、それでも「一人で背負わせない」。
(……ずるいわね)
小さく、息を吐く。
これは、甘えだろうか。
それとも、信頼だろうか。
分からない。
だが、少なくとも一つだけ、はっきりしている。
これは――
「選ばされた結果」ではない。
自分で考え、
自分で判断し、自分の足で、ここに立っている。
そう言えるだけの余地が、まだ残されている。
エルフリーデは、静かに窓を閉めた。
夜気が遮断され、室内の灯りが、やわらかく壁を照らす。
灯りを落とし、ベッドに向かう。
明日も、仕事はある。
判断も、会議も、終わらない。
それでも。
(……選ぶなら)
(誰かの都合じゃなく)
(ちゃんと、自分で選びたい)
その思いだけが、静かに、確かに、胸の奥に残っていた。




