肩書
朝。
連合商務調整局本部の執務室。
窓から差し込む光はまだ柔らかく、廊下のざわめきも遠い。
ルーカスは机の上に、一枚の書類を置いた。
封もなく、装飾もない。
だが、公式の書式だった。
「エルフリーデ。」
名を呼ばれ、彼女は顔を上げる。
「今日から、この案件を君に任せたい。」
差し出された紙に、エルフリーデは視線を落とす。
――臨時調整責任者
――対象案件:連邦内航路再編に伴う常設調整枠
一瞬、呼吸が止まる。
恒久職ではない。
だが、補助でも代理でもない。
“責任者”の文字が、はっきりとある。
「……これは。」
問いかける前に、ルーカスが続けた。
「評価じゃない。」
即座だった。
「昇進でも、特別扱いでもない。」
淡々とした声。
だが、言葉は選び抜かれている。
「今の君の仕事が、外から“見えなさすぎる”。それだけだ。」
エルフリーデは、ゆっくりと書類を読み進める。
権限は限定的だ。
最終決裁は統括官。
だが、調整の窓口と一次判断、そして記録に残る名義は――彼女だった。
「……これで。」
静かに口を開く。
「私が関わる案件は、すべて正式に“局内案件”として扱われますね。」
「そう。」
短い肯定。
「外から見れば、“個人”じゃなくなる。」
一拍。
「触るなら、連邦と交渉する必要がある。」
それが、この肩書きの意味だった。
エルフリーデは、少し考える。
これは守りではない。
同時に、逃げ道でもない。
(……前に立つ、というより)
(線の内側に、置かれる)
連邦という枠の、内側。
交渉と責任が届く場所。
そして――外から、勝手に触れない場所。
そう理解した。
「……責任は、最終的には、僕。」
遮るように言う。
「それは変わらない。」
だが、続けて一言。
「ただし、君の判断は“君のもの”として残る。」
逃がさない言葉だった。
成功すれば、実績になる。
失敗すれば、記録にも残る。
中途半端な位置ではない。
エルフリーデは、書類を閉じた。
そして、顔を上げる。
「……承知しました。」
声に、迷いはない。
「この案件、引き受けます。」
ルーカスは、ほんのわずかに息を吐いた。
「ありがとう。」
それは、上司としての言葉だった。
「今日から、君は“調整局の一員”じゃない。」
一拍。
「調整局の顔の一つだ。」
その言葉が、静かに落ちる。
エルフリーデは、一礼する。
「職務として、全力を尽くします。」
形式的な言葉。
だが、その背筋は、真っ直ぐだった。
ルーカスは、それを見て、内心だけで頷く。
(……これで、少なくとも)
(“様子見”で触れる連中は、減る)
完全な防波堤じゃない。
だが、名前だけが先に歩く状態からは、確実に一段、抜けた。
――少なくとも、“触っていい存在”ではなくなった。
机の上の書類が、静かに存在感を放っている。
それは、称号でも勲章でもない。
――だが確かに、
エルフリーデの立つ位置を、世界に示す一枚だった。




