名前が先に歩き始める
それから、いくつかの案件が続いた。
港湾調整。
保険条項の再設定。
航路再編に伴う暫定合意。
どれも派手さはない。
だが、一つとして軽い仕事ではなかった。
エルフリーデは、淡々とそれをこなしていった。
必要以上に前に出ることはない。
だが、引くべき場面でもない。
相手の言葉を最後まで聞き、記録を整え、判断に必要な要素だけを抜き出す。
その結果、会議は荒れず、合意は長引かず、後処理も最小限で済んだ。
「……今回の調整、誰がまとめた?」
そんな声が、会議後の廊下で交わされるようになる。
「調整局の、エルフリーデという方らしい。」
「統括官じゃないのか?」
「いや、主担当だそうだ。」
その会話に、評価も批判もなかった。
ただ、事実だけが積み重なっていく。
やがて、別の場所でも、同じ名前が出始めた。
「最近、連邦の調整が妙に早い。」
「担当が変わったのか?」
「名前は聞いた。だが、肩書きが見えない。」
――それが、違和感だった。
実績はある。
判断も見える。
だが、立場が曖昧だ。
誰の管轄で、どこまで権限があり、どこから先が“越えてはいけない線”なのか。
それが、外から見て分からない。
そして。
分からない、ということは――
探れる、ということでもあった。
連邦内の、調整局とは別系統の部署で。
非公式な雑談として、こんな言葉が交わされていた。
「……あれは、まだ“自由”なんじゃないか?」
「いや、統括官の配下だろう」
「配下、というだけだ。正式な肩書きがないなら、話は別だ」
それは、評価でも噂でもない。
“手を出していいかどうか”を測る会話だった。
記録には残らない。
だが、そうした空気だけが、静かに広がっていく。
エルフリーデ自身は、その変化を知らない。
今日も、資料を整え、次の会議の要点をまとめ、必要な部署にだけ連絡を回す。
仕事は、相変わらず滞りなく進んでいた。
だが、ルーカスは気づいていた。
廊下で交わされる視線。
会議前に増えた“様子見”の沈黙。
名前を出した時の、微妙な間。
(……名前だけが、先に歩いてる)
これは、評価の段階ではない。
出世でもない。
もっと単純で、もっと危険な状態だ。
――「触っていいかどうか」を測られている。
その日の夕方。
調整局内の非公式な報告が、ルーカスの耳に入る。
「最近、外からの問い合わせが増えています。」
「特定の個人に関するものです。」
名前は出ない。
だが、誰のことかは明白だった。
ルーカスは、短く息を吐く。
(……やっぱり、ここだ)
評価じゃない。
称賛でもない。
これは――
「間に合っていない状態」だ。
放置すれば、持っていかれる。
なら、やることは一つしかない。
(……立場を、先に置く)
彼は、机の上の案件一覧に視線を落とした。
その中の一つに、指を置く。
恒久職ではない。
だが、外から見ればはっきり分かる。
「彼女はすでに連邦の内部案件に組み込まれている。」
そう示せる、ちょうどいい仕事。
ルーカスは、静かに決断する。
評価じゃない。
未整理のままにしておくのが、一番危険だ。




