場を制する
会議室の空気は、表面上は穏やかだった。
港湾管理局、保険組合、そして二つの小国の使節。
それぞれが資料に目を落とし、形式的なやり取りが続く。
だが――
三巡目に入ったあたりで、片方の使節が口を開いた。
「本件ですが。」
柔らかい声。
だが、意図は隠していない。
「我が国としては、今期中の再配分を強く希望します。遅延が生じた場合、交易継続そのものを再検討せざるを得ない。」
言外の意味は明白だった。
――飲め。
――さもなくば、困るのはそちらだ。
空気が、わずかに張る。
港湾管理局の担当者が、ちらりとルーカスを見る。
保険組合の代表も、様子を窺う。
(……来たな)
ルーカスは、ほんの一瞬だけ口を開きかけた。
この場を収める言葉は、いくらでもある。
強硬にも出られる。
圧を跳ね返す立場もある。
――だが。
彼は、何も言わなかった。
視線を、エルフリーデに戻す。
(……任せた。)
そう言っているようだった。
エルフリーデは、相手の言葉を遮らない。
すぐには返さない。
一度、資料に目を落とし。
ペン先で、該当箇所をなぞる。
そして。
「ご懸念は、理解いたします。」
声は、穏やかだった。
「交易継続が国家にとって重要である点も、承知しております。」
相手の使節が、わずかに頷く。
――通じた、と判断した顔。
だが、次の一言で、空気が変わった。
「ただ。」
ほんの一拍。
「今期中の再配分は、現行条項上“例外措置”に該当します。」
資料を閉じる音が、静かに響く。
「仮にここで特例を認めた場合、次回以降、同条件を否定する根拠が失われます。」
相手の眉が、わずかに動く。
エルフリーデは、視線を逸らさない。
「それはつまり――貴国が、将来的に“特例を要求できない側”に回る可能性を含みます。」
遠回し。
だが、逃げ場はない。
「今回の再配分が恒例化すれば、保険条件の再設定、航路優先権の再調整が必要になります。」
淡々と。
「その際、現在の条件が維持されるとは、限りません。」
沈黙。
使節の指が、机の上で止まった。
――脅していない。
――拒否もしていない。
ただ、「その先」を静かに見せただけだ。
「ですので。」
エルフリーデは、結論を急がない。
「本日は、今期内で可能な調整幅を整理し、双方にとって“例外にならない着地点”を探す場としたいのですが。」
提案。
だが、実質的には主導権の回収だった。
会議室の空気が、明らかに変わる。
先ほどまであった圧が、霧のように薄れる。
港湾管理局の担当者が、小さく息を吐く。
保険組合の代表が、資料をめくり直す。
そして、圧をかけてきた使節は――
一度、椅子にもたれた。
「……なるほど。」
声音が、変わっていた。
「確かに、軽率でした。」
完全な撤回ではない。
だが、押し切る姿勢は消えている。
(……制したな)
ルーカスは、内心でそう思った。
言葉は柔らかい。
だが、判断は冷静で、容赦がない。
――王宮で培ってきたものだった。
前に立たず。
声を荒げず。
相手に「選ばせた」上で、逃げ道を潰す。
これ以上、口を挟む必要はない。
エルフリーデは、静かに頷いた。
「では、具体的な調整案に進みましょう。」
会議は、そのまま前に進む。
この場で誰が主導しているのか。
誰の判断が基準になるのか。
もう、誰の目にも明らかだった。
ルーカスは、背後で静かに腕を組む。
(……初案件としては、上出来すぎるな)
だが同時に、はっきりと理解していた。
――もう、隠す段階じゃない。
この名前は。
この判断は。
これから、確実に記録に残る。
そして。
それを狙う者の目にも、届く。
だが今は。
前に立つ背中を見て、
彼はただ一つ、確信していた。
(……任せて正解だった)




