立場への一歩
朝。
連合商務調整局本部、会議階の一角。
主要な会議室から少し外れた、小規模会議室だった。
規模は小さい。
だが、使われる場面は限られている。
――統括官か、主任級。
少なくとも「名義を持つ者」が使う部屋だ。
その扉の前で、エルフリーデは一度だけ足を止めた。
(……ここ、だったかしら)
確認ではない。
戸惑いに近い。
間違ってはいない。
だが、これまで自分が立つことのなかった場所だ。
廊下の空気が、わずかに違う。
通り過ぎる職員の視線が、一瞬、こちらに触れて離れる。
意識していなくても、感じ取ってしまう。
「エルフリーデ。」
背後から、ルーカスの声がした。
振り返ると、彼はいつも通りの外套姿で立っている。
表情も、声色も、昨日までと変わらない。
――だからこそ。
この状況が、特別なのだと分かる。
「今日の案件、君が主担当だ。」
淡々とした言い方だった。
確認でも、念押しでもない。
「調整責任者として、名前を出す。」
それは、命令ではなく事実の告知だった。
エルフリーデは、小さく息を吸う。
胸の奥で、何かが静かに落ち着くのを感じた。
「……はい。」
返事は、揺れなかった。
会議室に入ると、すでに数名が席に着いていた。
港湾管理局の担当者。
保険組合の代表。
そして――二つの小国の使節。
机の配置。
書類の置き方。
互いに探るような視線。
慣れた光景のはずなのに。
扉が閉まった瞬間、
視線が、一斉にこちらに集まった。
ほんの一瞬。
(……あ)
その中に、微かな戸惑いが混じっているのが分かる。
――若い。
――女性だ。
――しかも、統括官ではない。
だが同時に、
「軽く扱っていい相手か」を測る視線でもある。
名乗りを待つ、沈黙。
エルフリーデは、一歩前に出た。
距離は、わずか一歩。
それだけで、空気が切り替わる。
「本日の調整を担当いたします。」
声は、低すぎず、高すぎず。
意識して整えた、業務の声だ。
「連合商務調整局、エルフリーデです。」
肩書きは、簡潔に。
だが、逃げ道のない言い方。
「本件については、私が一次調整を行い、最終判断は統括官が行います。」
そう告げてから、ほんの一瞬だけ後ろを見る。
ルーカスは、何も言わない。
ただ、はっきりと頷いた。
そこに、迷いはない。
――前に立つのは、彼女。
――背後に立つのは、彼。
その構図が、言葉よりも雄弁に示される。
ざわり、と空気が動いた。
(……なるほど)
誰かが、理解した気配があった。
これは代理ではない。
飾りでもない。
「判断を担い、その先に立つ者がいる位置に置かれた人間」だ、と
「では。」
エルフリーデは、資料を開く。
紙の音が、静かな部屋に響く。
「本件の争点を、整理します。」
その瞬間。
彼女は、はっきりと自覚していた。
これは、試される場ではない。
評価を待つ席でもない。
――仕事をするために、与えられた席だ。
そして同時に。
この名前が、この調整結果と一緒に、どこかの記録に残るということも。
だが、不思議と恐怖はなかった。
緊張はある。
責任の重さも、理解している。
それでも。
(……大丈夫)
一人ではない。
視線を横にやれば、
背後ではなく、同じ盤面に立つ人がいる。
逃げ場を用意されたのではない。
立つ場所を、与えられただけだ。
エルフリーデは、静かに顔を上げた。




