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夕刻。


階段でのやり取りから少し経って、二人は連合商務調整局本部の執務室に戻っていた。


外の喧騒は遠く、部屋の中には紙とインクの匂いだけが残っている。

灯りはまだ落とされていないが、昼間の忙しさは嘘のようだった。


ルーカスは扉を閉め、内側から簡単に鍵をかける。


「……ここなら、誰も入らない。」


言いながら、机の前に立つ。

さっきまでの取り乱した様子は、だいぶ落ち着いている。

だが、完全に余裕を取り戻したわけではない。


エルフリーデは、机の向かいに立ったまま、椅子には座らなかった。


「……先ほどの話ですが。」


視線を逸らさず、静かに続ける。


「“外からの動き”と、おっしゃいましたね。」


ルーカスは、一瞬だけ目を閉じた。


「うん。」


観念したように、机の引き出しを開ける。


中から取り出したのは、一通の書簡。

簡素な封。

だが、封蝋の意匠だけが、異様に重い。


見慣れないはずなのに、

“知らないと思えない”種類の重さだった。


彼はそれを、机の上に置いた。


「数日前に届いた。」


淡々とした声。


「君の名前が、はっきり書いてあった。」


エルフリーデの指先が、わずかに強張る。


「……どちらからですか?」


問いは短い。

だが、その裏にある緊張は、はっきりしていた。


ルーカスは、隠さなかった。


「ヴァルディス帝国の、記録院だ。」


その瞬間。


エルフリーデの背筋を、冷たいものが走った。


(……ヴァルディス帝国、記録院)


思わず、息を詰める。


外交の場で、何度も耳にした名だ。

表には出ない。

だが、知らぬ者はいない。


ヴァルディス帝国は、同盟を結ぶ国でも、敵対する国でもない。

交渉の席に姿を見せず、交渉が終わったあとで、結果だけを確定させる国。


情報を集め、人を集め、

必要とあらば、記録ごと人を消す。


「優秀な人材は、国家資源」

それを理念ではなく、運用として本気でやっている国。


(……最悪、拉致で済めばいい方だ)


関わった外交官が、

翌年の名簿から名前ごと消えた、という噂も一度や二度ではない。


一拍、言葉が出ない。


ルーカスは、その反応を見て、わずかに眉を寄せた。


「……知ってる、よね。」


「はい。」


エルフリーデは、短く答える。


「王宮で……何度か、話題に上がりました。」


声は落ち着いている。

だが、無理に平静を保っているのが、自分でも分かった。


あの名が出ると、会話は決まって、そこで終わった。

続きを口にする者はいなかった。


「どこも関わりたがらない国です。」


そう言ってから、ふっと自嘲気味に息を吐く。


「まさか、自分が、“見つけられる側”になるとは……思っていませんでした。」


ルーカスは、机に手をつく。


「僕もだよ。」


正直な声だった。


「最初は、確認だけだと思った。」


書簡に視線を落とす。


「でも……あの書き方は違う。」


一度、言葉を選ぶ。


「確認の形をしてるけど、返事を前提にしてない書き方だった。」


封蝋から、目を逸らさない。


「答えを求めてるんじゃない。こちらがどう動くかを記録するための手紙だ。」


つまり。


「君はもう、“自由な駒”として見られてる。」


その言葉は、重かった。


エルフリーデは、しばらく黙っていた。

机の上の書簡を見る。


触れない。

だが、目は離さない。


「……だから、黙っていらしたのですね。」


責める響きはない。

理解したからこその、確認だった。


ルーカスは、ゆっくり頷く。


「巻き込みたくなかった。」


一拍。


「……正直に言うと、君が知ったら、怖がると思った。」


自分で言って、苦く笑う。


「判断を鈍らせるかもしれない、とも。」


それが、彼の独断専行の理由だった。


エルフリーデは、少し考えてから答える。


「……怖いです。」


はっきりと。


「でも。」


視線を上げる。


「知らないままでいる方が、もっと、取り返しがつかないと思います。」


その言葉に、ルーカスの表情が変わる。


驚きと、安堵が、同時に浮かんだ。


「……そうだよね。」


小さく呟く。


「君はそう言う人だった。」


エルフリーデは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「外交では……知らないことが、一番危険ですから。」


それから、続ける。


「今後、どう動くおつもりですか?」


問いは、完全に“当事者”のものだった。


守られる側ではない。

状況を共有し、判断に加わる側の声音。


ルーカスは、一度だけ深く息を吸う。


「……次からは。」


視線を合わせる。


「一緒に考えたい。」


誤魔化しも、軽さもない。


「これはもう、僕一人で抱える話じゃない。」


その言葉に、エルフリーデは小さく頷いた。


「はい。」


即答だった。


執務室に、静かな緊張が満ちる。


だがそれは、先ほどまでとは違う。


不安を隠す空気ではなく、同じ盤面を見据える者同士の沈黙だった。


机の上で、ヴァルディス記録院の書簡が、静かに存在感を放っている。


それは、ただの手紙ではない。


――世界が、彼女を見つけた証だった。


そして同時に、見つけた以上、手放す気はないという宣告でもあった。


ここから先は、二人で向き合う問題だという合図だった。


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