来てはいけない手紙
夜の執務室は、静まり返っていた。
灯りは最小限に落とされ、窓の外には港の灯が点々と浮かんでいる。
遠くで聞こえるのは、潮の音と、船の索が軋む微かな響きだけだ。
ルーカスは机に肘を突き、その日の報告書を一枚ずつ処理していた。
――平常運転。
案件は多い。
だが、どれも致命的ではない。
少なくとも、今のところは。
「……」
ノックが一つ。
「失礼します」
入ってきたのは、連邦内でも存在を知る者が限られている部署の連絡係だった。
年齢も性別も曖昧な人物。
感情の読み取れない顔。
「こちらを」
差し出された封筒を見た瞬間、
ルーカスの指が、止まった。
封蝋。
簡素。
だが、紋章ははっきりしている。
国名を確認した瞬間、背中を冷たいものが走った。
ヴァルディス帝国。
――その中央機関、ヴァルディス記録院。
外交文書ではない。
商務案件でもない。
それが、直感で分かった。
「……ありがとう」
短く答え、連絡係を下がらせる。
扉が閉まる音を確認してから、封を切った。
中身は、一枚。
文字数は少ない。
装飾もない。
だが、無駄が一切ない。
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連合商務調整局
統括責任者 ルーカス殿
貴殿の管轄下に
エルフリーデ・アルディア・フォン・ローゼンハイム殿
が在籍していると聞き及びました。
事実確認を求めます。
併せて、彼女の現在の立場、および今後の処遇予定について、共有いただければ幸いです。
――なお、アルディア王国との正式交渉は、すでに凍結しております。
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最後の一文を読み終えたところで――
ルーカスは、完全に動きを止めた。
「……」
ゆっくりと、椅子の背に体を預ける。
書簡を伏せたまま、
ルーカスはもう一度、最初の数行を思い返す。
――エルフリーデ・アルディア・フォン・ローゼンハイム。
(……アルディア、だと?)
姓ではない。
国名だ。
一瞬、思考が止まる。
「国名」を姓として名乗ることの意味。
それは、没落貴族でもなければ、亡命者でもない。
(直系、か)
喉の奥が、ひくりと鳴る。
王女。
それも、名を伏せて雑務に紛れ込むような、前に出ないタイプの王女。
「……なるほどな」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
書類仕事に強い理由。
人の機嫌を読む精度。
言葉を選ぶ間の取り方。
場を壊さず、結論だけを通す技術。
(王宮にゆかりがある人物なのは知っていたが…)
まさか――
(“追放された王女”だとは)
だから、肩書きを持たず。
名前を前に出さず。
結果だけを積み上げていた。
連邦に来てからの働き方が、あまりにも「癖がない」理由が、ようやく腑に落ちる。
(王女教育を受けた人間が、裏方に回ったら……そりゃ厄介だ)
ヴァルディス記録院が動くのも、当然だった。
彼らが見ているのは、「有能な実務者」ではない。
(王国を一国、静かに回していた人間だ)
王国との正式交渉凍結。
それは、報復ではない。
(評価、だ)
「あの王国は、もう当分まともに話せない」
そう、切り捨てられた。
その判断の根拠に、彼女がいないという事実が含まれている。
ルーカスは、深く息を吐いた。
(……笑えないな)
これまで自分が見ていたのは、
「優秀な部下」
「扱いやすい調整役」
だが、本当は――
(国を動かす側の人間だ)
それが、机の向こうで書類を抱えていた。
(気づかれないように、目立たないように、自分からは何も言わずに)
無意識に、手で口を覆う。
ルーカスが考え込む時の癖だった。
(居場所は、完全に把握されている)
それだけではない。
(王国を、切った上で、こちらに来ている)
胃の奥が、じわりと冷えた。
この国が動く意味を、ルーカスは嫌というほど知っている。
――情報収集は、すでに終わっている。
――残っているのは、取るか、見送るかだけ。
「……くそ」
低く、吐き捨てる。
彼らが求めているのは確認ではない。
交渉ですらない。
“今なら、奪えるか”
それを測りに来ている。
王国は切り捨てた。
連邦はまだ囲いきれていない。
本人は、現場で結果を出し始めている。
(条件が、揃いすぎだ)
ルーカスは書簡を伏せ、自分の行動を頭の中で高速で洗い直す。
過度な権限は与えていない。
正式な高位役職もない。
表に出る仕事は最小限。
だが。
(隠しているだけで、足りる相手じゃない)
ヴァルディスは、行間を読む。
沈黙を数える。
「何をしていないか」まで、評価する。
一つ、理解した。
――これは、打診ではない。
――警告だ。
「こちらは、すでに見ていますよ」
そう言われている。
ルーカスは、目を閉じた。
浮かぶのは、今日のエルフリーデの姿。
書類を抱えて歩く背中。
周囲に向けられる無自覚な視線。
本人だけが、何も気づいていない顔。
(……まずいな)
これはもう、“優秀な部下”の話ではない。
(世界に、見つかった)
ゆっくりと息を吐く。
――本気で囲わなければ、奪われる。
役職。
立場。
名分。
安全圏。
全部、揃えなければならない。
ルーカスは、再び書簡を手に取った。
そして、初めて――
ほんのわずか、苦く笑った。
(……君、思ってたより、ずっと厄介だ)
心の中で、その名をなぞる。
エルフリーデ・アルディア・フォン・ローゼンハイム。
この夜を境に、
彼の中で、優先順位が――明確に変わった。
(……もう、“使いたくない”なんて言っていられない)
立場も。
血縁も。
権限も。
何を使ってでも。
彼女を、
この場所から、
この手の届く範囲から――
出さない。




