何か変わったかしら
数日が過ぎた。
業務そのものは、何も変わっていない。
書類の量も、会議の数も、求められる判断も、これまでと同じだ。
ただ――
エルフリーデは、最近、視線を感じることが増えた。
最初は、気のせいだと思っていた。
書類を受け取る時。
会議室に入った時。
廊下ですれ違った時。
一瞬、言葉が止まる。
一拍、間が空く。
それだけだ。
(……?)
不思議に思いながらも、仕事に戻る。
そういうことは、今までもなかったわけではない。
けれど。
「エルフリーデ殿」
最近、名前を呼ばれる回数が増えた。
しかも、用件は急ぎではない。
「この前の件、助かりました。」
「昨日の調整、綺麗にまとまってましたね。」
言われ慣れない言葉だ。
褒め言葉として受け取るには、少し照れくさい。
「いえ……」
そう返すと、相手はなぜか少し戸惑ったように笑う。
(……?)
エルフリーデには、その理由が分からない。
昼前。
給湯室で湯を注いでいると、背後から声がした。
「最近、雰囲気変わりました?」
唐突だった。
振り返ると、別部署の調整官が立っている。
「そう、でしょうか、」
「ええ。なんというか……」
言葉を探すように、相手は少し視線を彷徨わせる。
「前から、落ち着いてはいましたけど。最近は、余裕があるというか。」
余裕。
その言葉に、エルフリーデは小さく首を傾げた。
「仕事量は、変わっていませんよ。」
「そうなんですけどね。」
調整官は、曖昧に笑ってそれ以上は言わなかった。
エルフリーデは、カップを持ったまま考える。
(……疲れていないだけ、かしら)
最近は、無理に残ることもない。
睡眠も、きちんと取れている。
それだけの違いだ。
午後の会議。
席に着くと、向かいの男が一瞬だけ視線を上げた。
そして、すぐに逸らす。
その仕草が、妙に目についた。
会議は滞りなく進む。
いつも通りだ。
だが、終わった後。
「エルフリーデ殿。」
また、声をかけられる。
「この後、少し時間あります?」
業務の確認かと思った。
だが、続いた言葉は違った。
「例の商会の件で、軽く意見を聞けたらと。」
断る理由はない。
そう答えると、相手はどこかほっとした顔をした。
(……?)
気づけば、そういう場面が増えている。
相談。
確認。
雑談に近い会話。
押し付けではない。
頼り切っているわけでもない。
ただ――
「話しかけやすい位置」に、自分が置かれ始めている。
エルフリーデ自身は、それを特別だとは思っていない。
仕事をしているだけだ。
できることを、やっているだけだ。
だが。
少し離れた場所で、その変化を見ている男がいた。
ルーカスは、書類に目を落としたまま、会話の流れを聞いている。
エルフリーデに向けられる視線。
声の調子。
距離の取り方。
(……遅いな)
心の中で、そう思った。
今さらだ。
彼女は、最初からああだった。
疲れていただけで、曇っていただけで。
価値がなかった時期など、一度もない。
それを、ようやく周囲が“見始めた”。
ルーカスは、ペンを置く。
エルフリーデの方を見るでもなく、ただ一言、淡々と告げる。
「次の会議、時間押してるよ。」
声は低く、穏やかだ。
話しかけていた調整官が、はっとして頷く。
「失礼しました。」
人が散る。
エルフリーデは、何も気づかないまま、資料をまとめている。
ルーカスは、それを横目で見ながら思った。
(……気づかせたくなかったな)
彼女が“見つかる”前の世界を。
その考えを、表に出すことはない。
ただ、以前より少しだけ――
エルフリーデの近くにいる時間が、増えただけだった。




