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今は、まだ

ルーカスが屋敷に戻ると、灯りは最小限に落とされていた。

使用人の気配はあるが、誰とも顔を合わせない。


ルーカスは私室に入ると外套を脱ぎ、椅子に掛ける。

そのまましばらく、立ったままだった。


(……静かだな)


いつも通りのはずの夜。

仕事の報告も終わっている。

特別な用事もない。


それなのに、頭の中が妙に騒がしい。


卓に置かれた書類へ向かうが、手が止まる。

代わりに、湯を沸かす。


――香り。


昼間のそれが、ふと蘇った。


香辛料の匂い。

店の奥に残っていた、あの空気。

それを、当たり前のように受け入れていた彼女の横顔。


「……」


思わず、息を吐く。


(平気そうだったな)


“慣れてる”と、彼女は言った。

王宮で、だいたいのものは経験したと。


あれは、誇張じゃない。

むしろ、淡々とした事実の言い方だった。


(……ああいうところだ)


無理をしているようで、していない。

拒まないが、踏み込みすぎない。


自分の“境界”を、きちんと持っている。


湯気の立つカップを手に取り、腰を下ろす。


今日の料理を思い出す。


味は、確かに同じだった。

母の国で口にした、あの感じ。


――けれど。


(あんなふうに、誰かと食べた記憶は……)


指先が、無意識にカップの縁をなぞる。


仕事の会食は何度もあった。

形式的な晩餐も、数えきれない。


だが、今日は違った。


気を張らなくていい。

説明もしなくていい。

“好きかどうか”を、確かめなくていい。


ただ、隣にいて、同じものを食べていた。


(……一人で食べるより、いい)


口に出した言葉が、今になって胸に残る。


――あれは、独り言じゃなかった。


誰かに向けた言葉だった。


ルーカスは、カップを置いた。


(危ないな)


そう思う。


近づきすぎると、

守りたくなる。

囲いたくなる。


それは、仕事じゃない。


(……まだ、だ)


今は、まだ。


彼女は、連合商務調整局の一員。

対等な仕事相手だ。


それ以上を考えるのは、早い。


……早い、はずなのに。


思い出すのは、

店内で、静かに料理を口に運ぶ横顔。

香りに怯まなかったこと。

名前を挙げて「好きでした」と言ったこと。


(……慣れてる、だけか)


それとも。


ルーカスは、目を伏せる。


(あの人、男に慣れてないな)


根拠はない。

だが、確信に近い。


距離が近づいた時の、一瞬の呼吸。

視線の置き場。

当たり前のことを、当たり前だと思っていない反応。


――守られてきた、というより。

――忙しすぎて、知らなかった。


「……」


小さく、笑う。


(そういうところが、厄介なんだ)


自分に言い聞かせるように、呟いた。


灯りを落とす。


部屋は暗くなるが、

昼間の香りだけが、なぜか消えなかった。


ルーカスは、寝台に腰を下ろし、目を閉じる。


(次は……)


次は、何だ。


仕事か。

視察か。

それとも――


考えるのを、やめた。


今夜は、ここまででいい。


ただ一つだけ、確かなことがある。


――今日は、

“役割ではない自分”で笑っていた。


それを、

誰かと分け合ってしまった。


それが、

少しだけ――

嬉しかった。


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