帰りの馬車
翌朝。
帰路の途中だった。
地方都市を離れてしばらく、舗装の甘い街道に差しかかったところで、馬車が不自然に揺れた。
次の瞬間、がくりと大きく傾く。
「――止めろ!」
御者の声と同時に、馬車が完全に止まった。
外に出ると、車輪の片方がぬかるみに沈み込んでいるのが分かる。
昨夜の雨で、地面が思った以上に柔らかくなっていたようだ。
御者は額に汗を浮かべ、護衛が周囲を確認している。
「申し訳ありません。すぐ引き出します。」
そう言って、御者が馬を促そうとした瞬間だった。
「お待ちください。」
エルフリーデの声は、大きくない。
だが、不思議と全員の動きが止まった。
彼女は、まず足元ではなく、人の顔を見た。
「どなたか、怪我はありませんか。」
御者が一瞬、目を丸くする。
「……い、いえ。大丈夫です。」
護衛も首を振る。
「こちらも問題ありません。」
それを確認してから、エルフリーデは初めて車輪に視線を落とした。
「今、動かすと――」
言葉を選びながら、続ける。
「地面がさらに崩れそうですね。」
断定ではない。
だが、誰も反論しなかった。
御者が地面を踏みしめ、車輪の沈み具合を見て、短く息を吐く。
「……確かに。無理に引くと、余計に沈みます。」
誰かが指示したわけではない。
けれど、空気が一つの方向に揃っていく。
「一度、馬を外します。」
それは、御者自身の判断だった。
エルフリーデは、すぐに頷いた。
「お願いします。」
その一言で、全員が動き出した。
護衛が馬を離し、御者が車輪の周囲を掘り、板を敷く準備を始める。
無駄な声はない。
迷いもない。
数分後、馬車は無事にぬかるみから抜け出した。
「助かりました。」
御者が、素直に頭を下げる。
「いえ。」
エルフリーデは、いつも通り首を振った。
「判断が早かっただけです。」
それ以上は、言わない。
少し離れた位置で一連の様子を見ていたルーカスは、何も口を出さなかった。
代表として指示を飛ばすことも、助言を挟むこともない。
ただ、静かに見ていた。
(……命令していない)
それなのに、
(全員が、彼女の言葉を基準に動いた)
それが、ルーカスにははっきり分かった。
馬車に戻る際、彼はエルフリーデの隣に立ち、低い声で言う。
「慣れてるね。」
問いではない。
「……王宮では、こういう場面も多かったので。」
事実を述べただけの返答。
ルーカスは、小さく息を吐いた。
「なるほど。」
それだけ言って、先に馬車へ乗り込む。
その背中を見送りながら、エルフリーデは思う。
――大したことは、していない。
怪我の有無を確認して。
無理な選択肢を避けて。
決まった判断を、受け取っただけ。
それだけだ。
だが、王宮では――
それができない人間ほど、多かった。
馬車が再び動き出す。
先ほどよりも、揺れは少ない。
向かいに座るルーカスは、外を見ているようで、どこか別のことを考えているようだった。
(……雑務係、ね)
そんな言葉では、到底収まらない。
彼女は、人を動かす“順番”を、正確に知っている。
それは、教えられて身につくものではない。
――長い時間、人の上に立つ場所で、生きてきた者の癖だ。
ルーカスは、目を伏せたまま、静かに結論づけていた。




