出張
午前。
連合商務調整局本部は、いつも通り静かだった。
書類の擦れる音と、低い声のやり取りだけが、一定のリズムで続いている。
エルフリーデは机に向かい、写しに目を通していた。
地方都市セルヴァ。
小規模商会との確認作業。
――視察、ね。
そんなふうに考えていると、視界の端に影が差した。
「エルフリーデ」
少し間を置いた、低い声。
顔を上げると、ルーカスが立っていた。
書類を数枚抱え、肩の力を抜いた立ち方。
「今、ちょっといい?」
断る余地を残す言い方だが、
立ち去る気はなさそうだった。
「はい。」
椅子から立ち上がると、彼は自然に歩き出す。
向かったのは会議室ではなく、廊下脇の簡易スペースだった。
「地方都市セルヴァの件。」
書類を開きながら、軽い口調で続ける。
「形式上は視察。実際は顔合わせかな。」
「現地の貴族も来ますか?」
「来るよ。しかも、ちょっと厄介なタイプ。」
笑っているが、冗談ではない。
「書類の話じゃない、って顔ですね。」
「鋭い。」
即座に返して、目を細める。
「向こうはね、内容より“扱われ方”を見る。言い方一つで拗ねるし、逆に懐く。」
一拍。
「だからさ。」
書類から視線を上げて、エルフリーデを見る。
「君に同行してほしい。」
“頼み”の形をしているが、もう決まっている響きだった。
エルフリーデは、少し考えてから頷く。
「日程は?」
「一泊二日。明日の朝出発」
「早いですね」
「急ぎなんだ。ごめんね」
軽く言うが、謝罪の色は薄い。
「移動は?」
「馬車」
そこで、ルーカスはほんの一瞬だけ言葉を切った。
「……席の関係で、僕と同じ馬車になる」
説明というより、事後報告に近い。
「他の方は?」
「別便。荷物と人数の都合」
肩をすくめる。
「嫌だったら言って。今なら、どうにか――」
「大丈夫です」
即答だった。
その反応を見て、ルーカスは楽しそうに口元を緩める。
「そっか、よかった。」
一言だが、どこか含みがある。
「現地ではね。」
書類を閉じながら続ける。
「無理に前に出なくていい。書類は他がやるし、決めるのも僕」
視線だけで、距離を詰めてくる。
「君は、場を見てくれればいい。」
「見るだけ、ですか。」
「うん。見るだけ。」
言い方が、妙に意味深だった。
「……必要なら、ひとこと添える。」
それで十分だと分かっている言い方。
「分かりました。」
そう答えると、ルーカスは満足そうに頷いた。
「じゃあ決まり。」
踵を返しかけて、思い出したように付け足す。
「朝は早いよ。本部前に馬車出すから。」
「はい」
「寝坊しないでね?」
冗談めかした口調で言って、今度こそ歩き出す。
残されたエルフリーデは、少し遅れて息を吐いた。
――仕事だ。
ただの出張。
ただの同行。
そう分かっているのに、
「同じ馬車」という言葉だけが、妙に後を引く。
(……やっぱり、距離が近くないかしら?)
そう思ったが、彼がああいう人なのだ、と結論づけて、机に戻った。
文字を追う目は、ほんの少しだけ、落ち着かなかった。




