幕間 話にならない報告
王都・王宮。
第一王子レオナルトの視察報告は、予定通り評議会に提出された。
――形式上は。
報告書は、薄かった。
枚数の話ではない。
中身が、薄かった。
「……ベルクハイム地方、市場は活気があり、街道も良好。」
評議官の一人が、淡々と読み上げる。
「民の表情は明るく、特筆すべき問題は見受けられず――以上です。」
沈黙。
誰かが咳払いをした。
「……“良好”とは、具体的にどの点が?」
別の評議官が、穏やかに尋ねる。
「補修箇所の数、予算消化率、冬季対策の進捗は?」
レオナルトは、少しだけ眉をひそめた。
「……馬車で通った限りでは、特に問題はなかったが。」
「馬車で、ですか。」
声は低い。
だが、はっきりとした違和感が滲んでいた。
「街道は全線、確認されたのですか?」
「いや、主要路だ。だが、重要なのは――」
「主要路“だけ”ですか。」
被せるように、もう一人。
「それ以外の支線は?」
「物流が滞っている倉庫群については?」
「関税改定で揉めている商人組合への聞き取りは?」
質問が、重なる。
レオナルトの表情が、目に見えて固くなった。
「……細かい点は、担当官が後でまとめるだろう。」
その言葉に、空気が変わった。
「“担当官”とは、誰でしょうか」
静かな問い。
答えが、出ない。
以前なら、ここで名前が出ていた。
――第三王女エルフリーデ。
だが、その名は、もう呼ばれない。
評議官の一人が、書類をめくる。
「ベルクハイムから、すでに三件、嘆願書が届いています。」
淡々とした声。
「街道脇の斜面崩落。倉庫の一時停止。市場での徴税問題。」
一拍。
「……視察中に、これらは確認されませんでしたか?」
レオナルトは、口を開きかけて、閉じた。
代わりに、ミレーネが口を挟む。
「それは、視察後に起きた問題なのでは?」
自信ありげな声音。
「私たちが見た時は、問題なかったわ」
評議官たちは、互いに視線を交わした。
「……いえ」
最年長の評議官が、ゆっくりと首を振る。
「それらは、視察前から報告が上がっていた案件です」
「ただ――」
言葉を選ぶ。
「“視察に合わせて、表に出ないよう調整されていた”と考えるのが自然でしょう」
沈黙が、落ちた。
レオナルトの喉が、動く。
「……それは、つまり」
「“見せたい部分だけ見せられた”ということです」
はっきりと、言われた。
さらに、追い打ちがかかる。
「こちらも、ご確認ください」
別の書類が回される。
「ベルクハイム商人組合からの正式抗議です」
「“視察中、王子殿下に直接お伝えする機会が与えられなかった”とのこと」
「……彼らは、視察に合わせて待機していました」
レオナルトの顔色が、わずかに変わる。
「案内役は、何をしていた?」
「“殿下はお忙しい”との回答があったそうです」
誰も、ミレーネの方を見ない。
だが、全員が分かっていた。
忙しかったのは、視察ではない。
評議会が終わる頃。
「……今回の視察報告は、再提出を求めます」
正式な結論だった。
「加えて、ベルクハイムへの追加調査団を派遣します」
「王子殿下は――」
一瞬、間が置かれる。
「今後の視察について、随行官を増やす方向で調整を」
遠回しな言葉。
だが、意味は明確だった。
――信用されていない。
※
廊下。
レオナルトは、苛立ちを隠しきれずに吐き捨てる。
「……細かすぎるんだ。そんなに全部見られるわけがないだろう」
ミレーネは、腕を組んで頷いた。
「そうよ。視察なんて、雰囲気が大事なのに… 昔は、こんなこと言われなかったわ」
その“昔”が、いつか。
二人とも、考えない。
考えたくない。
だが。
以前は、誰かが裏で拾っていた。
誰かが整え、誰かが説明を足し、誰かが火消しをしていた。
それが、いなくなっただけだ。
※
数日後。
ベルクハイムの件は、他の地方にも波及する。
「第一王子の視察、意味あるのか?」
「来賓向けの行事じゃないのか?」
そんな声が、じわじわと広がり始める。
まだ、大事ではない。
だが、確実に。
――歯車は、狂い始めていた。
エルフリーデの名前は、まだ出ない。
だが、彼女が“いないこと”だけは、王宮中が、はっきりと理解し始めていた。




