書庫にて
午後。
資料室の奥は、ひんやりしていた。
紙と革と、古い木の匂い。
エルフリーデは目的の棚を見上げ、小さく息を吸う。
「……高いわね。」
背伸びをしても、指先が届かない。
ほんの、数センチ。
そのとき。
「それ、要る?」
柔らかく低い声が、すぐ後ろ。
振り返る間もない距離だった。
気づいた瞬間、ふわりと、知らない香りが鼻先をかすめる。
甘くはない。
重くもない。
焚きしめたお香のような、乾いた温度。
(……香り?)
一拍遅れて、ルーカスの存在を認識する。
視界に入ったのは、彼の喉元と、すぐ近くにある横顔。
東洋的な線の細い顔立ち。
光を受けて、やけに整って見える輪郭。
「はい。三年前のセルトリア案件の付属資料です」
答えながら、無意識に一歩下がろうとして――
下がれなかった。
彼が、前に出たからだ。
距離が、詰まる。
袖越しに、体温が分かるほど近い。
ルーカスは何も言わず、片手を伸ばした。
長い指。
関節がはっきりしていて、無駄な力が入っていない。
指先が背表紙に触れる瞬間、エルフリーデの視線が、思わず追ってしまう。
――静かだ。
棚も、書類も、音を立てない。
彼は、迷いなく目的の冊子を抜き取った。
「はい」
差し出される。
そのとき、再び香りがする。
さっきより、少しだけ近い。
(……近……)
冊子を受け取る指が、一瞬だけ触れそうになって、触れない。
「助かりました。」
声が、ほんの少しだけ硬くなる。
ルーカスはそれに気づいた様子もなく、軽く肩をすくめた。
「この辺、台が少ないんだよね。」
いつもの調子。
「届かないところは、言って。取るから。」
当然のように言う。
“親切”というより、
最初から役割としてそこにある声音。
エルフリーデは、冊子を抱え直す。
その拍子に、彼の袖口が目に入る。
仕立ては西方風。
けれど、内側の留めが、どこか異国めいている。
気づいた瞬間。
ルーカスは、自然に袖を下ろした。
視線を合わせないまま。
「内容、難しそう?」
話題を切り替える声。
「いえ。読む分には」
「そっか」
短い返事。
距離が、ようやく離れる。
なのに、香りだけが、まだ残っている。
(……なんなの、この人)
背が高いとか、顔がいいとか、そういう単純な話じゃない。
近づいたときの“圧”が、妙に強い。
資料室を出る直前、ルーカスがふと足を止めた。
「高いところ、無理しないでね。」
振り返らずに言う。
声は柔らかいのに、どこか含みがある。
エルフリーデは、一拍遅れて頷いた。
「……はい。」
背中を見送りながら、思う。
(異国の方、なのかしら)
でも――
聞くには、近すぎた。




