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旅支度

その夜、エルフリーデは執務棟の一角にある仮眠室にいた。


本来は文官用の簡素な部屋だ。

石壁に囲まれ、飾り気のない寝台と小さな机が置かれているだけ。

窓も小さく、夜気を遮るための厚手のカーテンが引かれていた。


机の上には、書類の山。

端正に揃えられた束と、途中で崩れたままの紙が混じっている。


引き継ぎ書だ。


誰がどの案件を担当しているのか。

期限はいつで、注意すべき点は何か。

どの貴族が厄介で、どこに話を通しておくべきか。


――本来なら、何日もかけてまとめるもの。


だが、許された時間は一晩だけだった。


「……これで、最後ね」


小さく呟き、ペンを置く。

指先がじんと痛んだ。


身に着けているのは、昼間と同じ淡い灰青色のドレス。

仕立ては悪くないが、何度も袖を通したせいで布地は少しくたびれている。

袖口には細かなほつれが残り、色もわずかに褪せていた。


本来なら、侍女が気づいて直すはずの箇所だ。

けれど、誰も何も言わなかった。


髪は低い位置でまとめているが、きっちりとは結えていない。

指で撫でつけた跡が残り、後れ毛が頬にかかっている。


鏡を見る余裕は、もうなかった。


ペンを取り、また書く。


――この交渉は相手が強気に出てくる。

――期限厳守。遅れれば必ず責任を問われる。

――予算は一度、見直した方がいい。


文字が滲む。

目の奥が熱く、視界が揺れる。


それでも、手を止めなかった。


「……まだ、大丈夫」


自分に言い聞かせるように、そう呟く。


仕事が終わっていないのだから、休む理由はない。

そう思うのは、もう癖のようなものだった。


夜明け前、最後の束をまとめ終えた頃には、

椅子から立ち上がるのも一苦労だった。


「……終わり」


声は、ほとんど出なかった。


寝台に腰を下ろし、深く息を吐く。

胸の奥が、じんと痛む。


――これで、この国の仕事は終わり。


そう思ったはずなのに、

頭に浮かぶのは「引き継ぎ漏れはないか」という不安だけだった。


「……本当に、重症ね」


小さく笑って、目を閉じる。


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