いい人なのだけど…
廊下に出たところで、背後から声がかかった。
「……もう上がる?」
声は低く、少し間があった。
振り返ると、ルーカスが立っている。
外套を肩に掛け、書類を数枚抱えたまま。
「お疲れさま。」
そう言いながら、口元だけで笑う。
目は、いつも通り細い。
「今日は、きれいに切り上げてるね。」
評価なのか、ただの確認なのか分からない言い方だった。
「はい。一通り終わりましたので。」
「うん。いい判断だと思う。」
即答だったが、理由は続かない。
そのまま、自然に並んで歩き出す。
「ここ、どう?」
唐突に聞かれる。
「居心地、悪くない?」
“仕事はどうか”ではない。
“環境はどうか”でもない。
居心地。
「……静かです。」
そう答えると、彼は小さく喉を鳴らした。
「だよね。」
どこか、楽しそうだ。
「静かすぎると、逆に落ち着かない人もいるけど。君は、たぶん平気そう。」
決めつけているのに、嫌な感じがしない。
玄関が見えてくる。
「無理は、しなくていいからね。」
歩調を合わせたまま、さらっと言う。
「ここは、ちゃんと分けて使う場所だから。」
“誰が”とは言わない。
“何を”とも言わない。
それでも、意味だけは通じる。
「明日、午前の会議。」
一拍置いて。
「昨日の件、また出るよ。写し、君のところにも回す。」
確認ではない。
報告でもない。
予告だった。
「助かる?」
問いかける形をしているが、答えは決まっている。
「……はい。」
「よかった。」
満足そうに、ほんの少しだけ笑った。
扉の前で足を止める。
「気をつけて帰ってね。」
ただでさえ細い目が、笑みで細められる。
エルフリーデは何故かそれに、猫を連想した。
「じゃあ、また明日。」
振り返らずに言って、先に外へ出る。
エルフリーデは、一拍遅れてその背を追った。
(……気遣ってくれる、いい人だわ、本当に。)
そう思った。
でも――
胸の奥に、説明のつかない引っかかりが残る。
何が、とは言えない。
ただ、あの人は。
距離の詰め方が、少しだけ上手すぎる。
――いや。
上手、というより。
「慣れている」ような。




