幕間 視察という名の
地方都市ベルクハイム。
第一王子レオナルト一行が到着した街は、よく整えられていた。
正確には、来賓の目に入る範囲だけが。
通りには花が並び、旗が掲げられ、人々は決められた位置で拍手を送る。
準備は万端だった。
少なくとも、表向きには。
「いやあ、いい天気だな」
馬車を降りるなり、レオナルトは大きく伸びをした。
その腕に、婚約者ミレーネが気だるそうに腕を絡める。
「……ほんと。暑くも寒くもなくて、ちょうどいいわね」
視線は街ではなく、彼の横顔に向いていた。
「視察日和だ」
「そうねえ。せっかく来たんだもの、楽しまないともったいないわ」
二人は自然に顔を寄せ合い、低く笑う。
それを取り囲む地方貴族や役人たちは、笑顔のまま言葉を失っていた。
――始まったな。
誰も口には出さない。
だが全員が、同じ予感を抱いていた。
※
「まずは市場をご覧ください」
案内役の代官がそう告げると、レオナルトは大きく頷いた。
「うむ。民の生活を見るのは大事だからな」
だが、その視線はすでに別のものを追っていた。
「ミレーネ、あの果物、色が綺麗じゃないか?」
「ええ……見た目は悪くないわね」
興味なさそうに言いながら、彼女は屋台に近づく。
「これ、甘いの?」
「は、はい。今が旬で――」
「じゃあ、それ一つ。殿下、取って」
当然のように言って、レオナルトに押し付ける。
「ほら、こういうのも“視察”でしょう?」
「確かに」
二人は楽しそうに笑った。
市場には問題が山ほどあった。
関税改定で揉めている商人。
許可が下りずに困っている職人。
倉庫が止まり、期限に追われている運送業者。
だが、王子と婚約者の目に映るのは――
「……甘いわね」
「だろう?」
「うん。悪くない」
それだけだった。
※
次は街道の視察だった。
馬車での移動中、ミレーネは窓の外を眺めながら、欠伸を一つ。
「景色は綺麗だけど……ちょっと退屈ね」
「あとで休憩を挟もう」
「そうして。こういう細かい話、よく分からないし」
街道の補修状況。
橋の老朽化。
冬前に崩れかけている斜面。
それらは、会話に上ることすらなかった。
「街道も、特に問題なさそうだな」
レオナルトが満足げに言う。
「そうね。だって、こうして馬車も揺れてないもの」
根拠は、それだけだった。
※
夕刻。
宿舎に戻れば、本来なら報告の時間になる。
――はずだった。
「この部屋、思ったより広いわね」
ミレーネは椅子に腰を下ろし、靴を脱ぎ捨てる。
「移動で疲れたわ。今日はもういいでしょう?」
「そうだな。無理は良くない」
机の上に置かれた報告書は、ほとんど白紙だった。
市場は活気があった。
街道は整備されていた。
それだけ。
「殿下、念のため、関税の件と――」
「難しい話は、王宮に戻ってからでいいわ」
ミレーネが先に口を挟んだ。
「ここで詰めたところで、どうせ誰かが後で整えるんでしょう?」
その“誰か”の名前は、もう王宮にはない。
※
夜。
「今日の視察も楽しかったな」
レオナルトが言う。
「そうね」
ミレーネは、満足そうに微笑んだ。
「ちゃんと見て、ちゃんと来た、って気分になるもの」
二人とも、本気だった。
だが本来なら、どこで立ち止まり、誰の話を聞き、何を拾わなければならないか。
すべて、第三王女エルフリーデが整えていた。
遊んでいても、観光していても、
その裏で、仕事は終わっていた。
今は、それがない。
数週間後。
この「視察」で見落とされた問題が、まとめて王宮に届く。
その時になって、ようやく理解する。
――あれは視察ではなかった。
ただの、仲良し観光だったのだと。




