数日が過ぎて
数日が過ぎた。
大きな問題は、起きていない。
正確には――
起きそうだった問題が、すべて起きなかった。
連合商務調整局本部は、相変わらず静かだ。
人も書類も減っていないし、業務量が軽くなったわけでもない。
それでも、詰まらない。
誰かが声を荒げる前に、論点が整理される。
確認不足で差し戻されそうな案件は、事前に修正される。
会議で揉めそうな箇所は、最初から避けられている。
エルフリーデは、特別な席に移されたわけではなかった。
肩書きも、役職も変わっていない。
それでも――
周囲の動きが、少しずつ変わった。
最初から、彼女一人に集めるつもりはない、という前提が見えた。
書類を渡されるタイミングが、変わる。
会議前に、「これだけ目を通してもらえるか」と声をかけられる。
決裁前の写しが、自然と彼女の机に置かれるようになる。
押し付けではない。
頼み込みでもない。
「一応、確認してもらえれば助かる」
その程度の距離感だ。
エルフリーデは、言われた通りに読む。
直さない。決めない。
ただ、気づいた点を、短く書き添える。
それで終わる。
それなのに、会議は短くなり、差し戻しは減り、後から蒸し返される案件が消えた。
誰も「彼女のおかげだ」とは言わない。
けれど、同じ書類が二度、彼女の机に来ることはなかった。
一週間が経つ頃には、「一応、彼女を通す」は、特別な配慮ではなく、ただの流れの一部になっていた。
エルフリーデ自身は、その変化を自覚していない。
ただ、仕事が終わる時間が安定したこと。
誰かの代わりに残業する場面がなくなったこと。
自分の手元に来る書類が、最初から整理されていること。
そのくらいしか、変わった実感はなかった。
――ここは、誰か一人に負担が集中する場所ではない。
それは、本当にルーカスが約束した通りだった。
ただ、その流れの中に、自分が「組み込まれた」だけだ。
夕刻。
エルフリーデが机に戻ると、次の書類が置かれていた。
別部署から回ってきた確認用の写しだ。
頁を一枚、二枚とめくっていると、背後から声がした。
「それ、今朝の案件だね」
驚いて振り返ると、ルーカスが立っていた。
書類を数枚抱え、片手で自分の執務用ファイルを押さえている。
仕事の途中。
偶然、通りかかった――そう言われれば納得できる距離だった。
「ええ、午前中に話していた件です」
エルフリーデはそう答えて、視線を紙に戻す。
ルーカスは、彼女の手元を覗き込むでもなく、
机の端に立ったまま、短く頷いた。
「もう一度、全体を見てくれてるの?」
「はい。一応」
それだけのやり取り。
だが、彼は去らなかった。
自分の書類に視線を落としながら、会議室の方で交わされている声を聞き、何かを確認するように、軽くペンを動かす。
統括として、上がってきた書類を確認しつつ、
同時に、現場の流れも見ている――
そんな立ち位置だった。
しばらくして、ルーカスがぽつりと言う。
「今日は、ここまでで十分だと思う」
エルフリーデは顔を上げた。
「もう少し――」
「いや」
被せるように、しかし柔らかく。
「今日は、ここまででいい」
理由は、わざわざ言わない。
評価も、説明も、今は必要ないという判断だった。
ただ、業務判断としての一言だった。
「分かりました」
そう答えると、ルーカスは小さく頷き、そのまま自分の書類を抱えて歩き出す。
去り際、振り返りもせずに一言だけ残した。
「助かったよ」
足音は、すぐに雑音に紛れた。
エルフリーデは、少し遅れて息を吐く。
(……今の、私の様子を見に来てくれていたのかしら)
――そう考えるのは、少し自意識過剰だろうか。
彼はこうやって、一人一人の仕事を見て、割り振りを考えているのだろうか。
彼の言った「人を使い潰すのは嫌いだ」という言葉を自然と思い出していた。




