正規雇用二日目 夕
夕刻。
会議が終わり、担当官が机の端で書類を揃えていた。
「今日、助かった。」
ぼそりとした声だった。
エルフリーデは、首を振る。
「私がしたのは、昔の話を思い出しただけです。」
担当官は、少しだけ笑った。
「それが一番厄介で、一番価値があるんだよ。」
そう言って、すぐに次の書類に手を伸ばした。
この場所は、褒めて終わりじゃない。
評価は流れに溶けて、すぐ次へ回される。
エルフリーデは、机の上を見下ろした。
条文。
議事録。
古い記録。
紙の上には何も書かれていないのに、
向き合う相手の顔が浮かぶ。
言葉を一つ間違えたせいで、場の空気が一気に硬くなったときの声の調子が浮かぶ。
誰かが慌てて取り繕い、結局、話がこじれたまま終わった――
そんな過去のやり取りが、いくつも思い出される。
それが、少し怖い。
けれど。
役に立つなら、使える。
使わない理由には、ならない。
エルフリーデは、静かに息を整え、席を立った。
廊下に出た瞬間、視線を感じた。
少し離れた柱の影。
そこに、ルーカスが立っていた。
今日も、だ。
近づいてこない。
声もかけない。
業務の邪魔もしない。
ただ――
気づくと、そこにいる。
視線を逸らすより先に、彼の方がこちらに気づいた。
糸のように細められた目が、ほんの一瞬だけ動く。
「いい仕事ぶりだったよ。」
落ちてきた声は、低くて静かだった。
褒め言葉の形をしている。
けれど、どこか確認に近い。
エルフリーデは、足を止めかけて、やめた。
「……ありがとうございます。」
それだけ返して、歩き出す。
数歩進んでから、ふと気づく。
(……私、今日の判断、誰にも詳しく説明していない。)
書類にも、まだ反映されていない。
共有されるのは、早くて明日以降のはずだ。
それなのに。
(どうして、知っているのかしら。)
振り返らなかった。
確かめもしなかった。
それでも、背中に視線が残っているのは分かる。
追ってこない。
呼び止めない。
ただ、見送っている。
胸の奥が、静かにざわついた。
書類を読むだけの仕事ではない。
いつの間にか、人を見る仕事になっている。
そして――
見られている側になるのは、慣れていない。
だからだろうか。
(……あの方、距離感が少しおかしい。)
そんな感想が、遅れて浮かんだ。
※
ルーカスは、執務机の端に置かれた書類を見下ろしていた。
エルフリーデがまとめた、今日の分だ。
整っている。
だが、整いすぎていない。
必要な箇所にだけ、最小限の言葉。
結論は書かれていない。
代案もない。
それでも、
これを通せば、どこで問題が起きるかだけは、はっきり分かる。
――いつも通りだ。
「……」
無意識に、指先で紙の端を揃えている自分に気づき、
ルーカスは小さく息を吐いた。
(触る必要は、ない。)
それなのに、
彼女が使った紙、彼女が置いた位置、彼女がペンを止めた行間。
そういう細部ばかりが、やけに目に入る。
仕事としては、ただの確認だ。
だが――
(今日は、少し疲れている。)
そう判断した理由は、書類の量でも、内容でもない。
最後の一行の、筆圧だ。
ほんの、わずか。
気づく者はいない。
だが、ルーカスには分かる。
これは「変化」だ。
――無理は、させていない。
――だが、負荷は、確実にかかっている。
それを測るため、彼は業務に踏み込む言葉を、意図的に選ばなかった。
本部に来て、まだ二日目だ。
今日は、無理に踏み込ませる必要はない。
(……慣れる、か。)
その言葉が、脳裏で引っかかる。
慣れすぎるのは、よくない。
慣れれば、頼られる。
頼られれば、押し付けられる。
やがて、全部を背負わされる。
――それを、させないために、ここへ連れてきたはずだ。
「ルーカス様」
調整官の声で、思考が中断される。
「次の案件ですが、エルフリーデ殿に――」
その名前が出た瞬間。
「それは、僕が見る。」
声は低く、即断だった。
調整官が、一瞬だけ目を瞬く。
「……承知しました。」
理由は聞かれない。
だが、ルーカスは分かっている。
今の案件は、彼女が見れば、必ず気づく。
気づいて、黙って書き込み、結果として、場を救う。
――それが、問題だ。
彼女は、評価されるために動いていない。
場が壊れないためにしか、動かない。
それは美徳だ。
だが、同時に――
(使われやすい。)
その事実が、喉の奥に、じっとりと残る。
ルーカスは、立ち上がった。
執務室の奥、窓際へ向かう。
外の光は穏やかで、港の喧騒は遠い。
(王宮で、これを一人でやっていた。)
確信に近い推測だった。
名前が残らない仕事。
責任だけが集まる仕事。
誰かの判断を成立させるための、下準備。
――それを「雑務」と呼ぶ連中がいる。
ルーカスは、目を伏せた。
(……嫌いだな。)
誰かを使うのは構わない。
人を動かすのも、得意だ。
だが、使い潰される人間を見るのは、
昔から、どうしても我慢ならない。
「ルーカス様」
再び声がかかる。
「エルフリーデ殿、本日の業務を終えられたそうです。」
「そう。」
即答だった。
「今日は、もう上がってもらっていい。」
「……よろしいのですか?」
「本部での仕事としては、まだ二日目だ。十分すぎる。」
それに――
(これ以上、彼女に任せる理由がない。)
彼女が帰る足音を、ルーカスは執務室の奥で聞いていた。
遠ざかる音。
その方向を、無意識に目で追いそうになって、止める。
(……まだだ。)
今は、まだ。
彼女は、ここで働き始めたばかりだ。
信頼はある。
評価も、すでに十分すぎる。
だが――
(管理するには、もう少し時間が要る。)
仕事として。
責任として。
立場として。
そう、理性は結論づける。
それでも。
(他所に行く、という選択肢は――)
脳裏に浮かんだ瞬間、
即座に否定した。
ありえない。
現実的ではない。
合理的でない。
――ここが、一番安全だ。
そう判断しただけだ。
ルーカスは机に戻り、
エルフリーデの書類を静かに重ね直した。
端を揃え、順番を整え、元の位置に戻す。
(……大丈夫だ。)
誰に言うでもなく、そう思う。
彼女は、もう一人で全部を回す場所にはいない。
そのために、
自分が、ここにいるのだから。




