正規雇用二日目 昼
昼前。
机の向こう側で、小さな会議が始まった。
担当の調整官が、書類を揃えながら言う。
「じゃあこれ、午後の便でセルトリア側に送ります。先に条件提示して、向こうの返答を待つ形で。」
“条件提示”。
その言葉で、エルフリーデの指が止まった。
(……条件を先に出すの。)
セルトリアは、交渉の入口で「条件」を投げられると、受け取り方が変わる。
それは王宮の外交で何度も見た。
“提案”なら飲める。
“相談”なら面子が保てる。
“条件提示”だと、押し付けに見える。
そして押し付けに見えた瞬間、向こうは“拒否する理由”を探し始める。
エルフリーデは、しばらく迷った。
言われた事を思い出す。
今日は流れを見ろ、と。
でも、これは。
このまま進むと、確実に遠回りになる。
彼女は、椅子の背に指をかけたまま、小さく口を開いた。
「……すみません。」
声は、ほとんど息に近い。
会議の音が、一瞬だけ止まった。
担当官が、顔を上げる。
「どうした。」
エルフリーデは、目を合わせきらずに、手元の紙を示した。
「これ、セルトリア側に出す文面なんですが。」
言葉を選ぶ。
「“条件提示”という形だと、向こうは少し構えます。たぶん、返答が遅くなると思います。」
担当官が、眉を寄せた。
「……根拠は。」
エルフリーデは、正直に首を振る。
「はっきりした根拠はありません。」
そして、続ける。
「ただ、以前、似た空気を見ました。向こうは最初に“相談”の形を取らないと、話が硬くなることが多かったです。」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
誰かが、苦笑するように息を吐く。
「……そういう“空気”の話が出てくるあたり、慣れてるな。」
そんな声が小さく混じった。
エルフリーデは、否定しなかった。
癖でいい。
名前の付かない経験でも、避けられる地雷なら、それで十分だ。
担当官が、腕を組む。
「……文面を変えろってことか?」
エルフリーデは、慌てて首を振った。
「いえ。変えるべきだと決めたわけではありません。」
言い切らない。
「ただ、最初の一文を“相談”に寄せると、返答が早くなる可能性があります。」
それだけ。
担当官は、会議録を引き寄せた。
隣の者が、古い案件箱から何かを探す。
紙が擦れる音。
頁をめくる音。
しばらくして、若い調整官が小さく声を出した。
「……三年前。」
机に、古い記録が置かれる。
「セルトリア相手に“条件提示”で入って、返答が一か月止まってる。理由は『検討に時間を要する』。」
別の者が続けた。
「その後、“相談”として出し直して、三日で返ってる……」
空気が、変わった。
誰もエルフリーデを見ていない。
紙だけを見ている。
でも、彼女の言葉が、今、ここで効いたのは分かった。
担当官が、短く息を吐く。
「……文面を直す。」
淡々と言った。
「“条件提示”じゃない。先に“確認と相談”で入れる。」
その場で、書類が差し替えられていく。
手際がいい。
責める空気も、驚く空気もない。
ただ、最短の手に変わった。
エルフリーデは、視線を落としたまま、そっと息を吐いた。
(……よかった。)
自分が評価されたわけじゃない。
そんなものは、どうでもいい。
ただ、事故が一つ、減った。
それで、十分だった。




