正規雇用二日目 朝
連合商務調整局本部の朝は、相変わらず静かだった。
机の数は多い。
書類も、人も、確実に動いている。
それでも、怒鳴り声はない。
焦りを散らす足音もない。
低い声で、短い指示。
それだけで流れが変わる。
エルフリーデは、昨日と同じ机に通された。
今日も「自分の席」だと主張する気にはなれない。
ただ、ここに座るよう言われたから座る。
机の上には、昨日より少し厚い写しの束が置かれていた。
「二日目は、軽い案件を一つ」
担当の調整官が、淡々と説明する。
「ラグリス王国とヴェルネ自治都市同盟の件は昨日の通りです。今日は別件。セルトリア自由公国との、港湾保険の更新条項です」
聞き慣れない国名ではない。
エルフリーデは、紙を一枚引き寄せた。
港湾保険。
輸送途中の損耗。
荷役中の事故。
船員の負傷。
責任の切れ目。
条文だけ見れば、よくある内容だ。
(……普通、なら)
エルフリーデは、頁をめくる速度を落とした。
契約の相手は、セルトリア自由公国。
提出する窓口は、公国の「港務監督局」。
だが、添付されている会議録の書き方が少し違う。
言葉が硬いのに、要点がぼやけている。
“問題ない”が多い。
“前向きに検討”が多い。
“確認の上”が多い。
(……逃げ道を残してる)
悪い意味ではない。
ただ、相手が「責任を持たない形」を好む書き方だ。
エルフリーデは、視線を落としたまま、ほんの小さく息を整えた。
(港務監督局……表の窓口ね)
セルトリアは、表の窓口と実務の窓口が、必ずしも一致しない。
それは王宮で、何度か痛い目を見た。
“監督局”に提出したはずの書類が、なぜか“商務評議会”の判断待ちになり。
その商務評議会は、“海運組合”の顔色を見ていた。
法律じゃない。
慣習でもない。
権力の流れだ。
エルフリーデは、書類の端を指で押さえた。
(この条文……事故時の報告経路が一本だけ)
港務監督局に報告する、と書いてある。
それ自体は間違いじゃない。
でも、セルトリアは“報告先が一つだけ”の文面を嫌う。
責任の矢印が一方向になるからだ。
それで何が起きるか。
事故が起きた時、報告が遅れる。
遅れた瞬間に、責任が転がる。
一番弱いところに落ちる。
エルフリーデは、ペンを取った。
書き込みは、短く。
断定しない。
「報告経路が単線。セルトリア側の運用では監督局と評議会を合わせた複線を求められる可能性あり」
それから、もう一枚。
免責条項。
不可抗力の定義。
条文自体は整っている。
だが、注釈に“政治判断”という言葉が混じっていた。
(……これは、触りたくない)
政治判断で不可抗力が拡張される国は、交渉で負けると突然それを使う。
理屈じゃない。
体面と都合だ。
エルフリーデは、余白に一行だけ落とす。
「不可抗力定義に政治判断余地。後出し拡張で免責範囲が膨らむ恐れ」
書き終えて、ペンを置いた。
直していない。
修正案も出していない。
それは、誰かを説得する言葉ではない。
ただ、後で言い逃れのできない形で、未来を置いただけだった。




