幕間 戻せば、戻る
王宮の執務室。
朝の光が差し込むには、少し遅い時間。
それでも机の上は、すでに書類で埋め尽くされていた。
国王は、黙って一枚を読み、次の一枚を手に取る。
――外交局。
――財務局。
――地方統治監査。
差し戻し。
保留。
再協議。
ここ数日で、同じ言葉が異様な速度で積み上がっていた。
「……おかしいな」
誰に向けたでもない呟き。
問題が起きるのは珍しくない。
だが、今回は“起き方”が違う。
細かい齟齬。
認識のズレ。
責任の押し付け合い。
どれも致命的ではない。
だが、放置すれば必ず傷になる。
「宰相」
呼ばれ、老宰相が一歩前に出る。
「第一王子と第一王女は?」
「はい。本日の定例業務は、両殿下とも滞りなく」
即答だった。
少なくとも、形式上は。
国王は、そこで一度目を伏せた。
「……彼らは、“最低限”はやっているのだな」
「ええ」
宰相は、否定しない。
「書類は通っています。署名もあります。会合にも出席しております」
だが。
その“だが”を、国王は聞き逃さなかった。
「だが、回っていない」
国王の言葉に、宰相は静かに頷く。
「……はい」
一拍。
「殿下方が“処理されていた”と認識されていた案件の多くが……」
そこで、ほんのわずかに言葉を切る。
「実際には、第三王女殿下の手で、事前に整理されていた形跡がございます」
国王は、ゆっくりと顔を上げた。
「……具体的に言え」
宰相は、机の上に新たな束を置く。
「第一王子殿下名義の外交案件です」
書類をめくる。
そこには、王子の署名がある。
だが、その横に添えられた、整いすぎた補足。
背景整理。
相手国の利害。
妥協点の候補。
「第一王女殿下の社交行事も同様です」
別の書類。
席次。
禁忌。
贈答品の選定理由。
「最終判断は殿下方です」
宰相は、はっきり言った。
「ですが、“判断できる状態”に整えていたのは、第三王女殿下でした」
沈黙。
国王は、椅子に深く腰を下ろした。
「……私は」
低い声で、続ける。
「二人が、仕事をしていると信じていた」
「はい」
宰相は、迷いなく答える。
「私も、同じ認識でした」
第三王女が追放された理由。
それは、明確だった。
有能であることと、正当であることは別だ。
王宮が“彼女なしでは回らない”形になるのは不健全。
その判断自体は、今も間違っていないと思っている。
だが。
「……思っていた以上に」
国王は、書類から目を離さずに言った。
「深く、入り込んでいたな」
第一王子が“最低限”をしていられた理由。
第一王女が社交に集中できていた理由。
その下で、
誰が、何を、どう止めていたのか。
ようやく、輪郭が見え始めていた。
「だが」
国王は、顔を上げた。
「だからこそだ」
宰相を見る。
「エルフリーデが戻れば、元に戻る」
断定だった。
「彼女は、構造を知っている。火種の位置も、止め方も」
机に手を置く。
「今は、彼女が抜けた穴が露呈しているだけだ」
宰相は、少しだけ眉を寄せた。
「……殿下を戻せば、再び“彼女前提”の構造になりますが」
「分かっている」
国王は、すぐに答えた。
「だが、今はそれでいい」
静かな声だった。
「王宮を立て直す猶予が要る。その間、彼女に戻ってもらう」
――一時的に。
その言葉を、国王は口にしなかった。
「彼女は王族だ」
続ける。
「正式に戻し、役割を明確にすればいい。今度は、“正当な位置”でだ」
宰相は、しばらく沈黙してから、頷いた。
「……ええ。今なら、まだ」
二人とも、同じことを考えていた。
第三王女は、
まだ外で潰れているはずだ。
どこかで、雑務をしているはずだ。
戻れば、きっと受け入れる。
王宮は、まだ完全には壊れていない。
歯車も、止まってはいない。
だから。
「戻せば、元に戻る」
国王は、本気でそう信じていた。
――その“元”が、
すでに過去のものになりつつあるとも知らずに。




