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壊れる前に止める場所

連合商務調整局本部の中は、想像していたよりも静かだった。


人は多い。

机も書類も、確実に忙しそうだ。


それなのに――

怒鳴り声がない。

焦った足音もない。


声は低く抑えられ、指示は短い。

誰もが、自分のやるべきことを把握している。


「今日は、ここの空気を知って貰えば、それでいい」


ルーカスはそう言って、エルフリーデを一つの机に案内した。


「無理に手を出さなくていい。」


椅子を引きながら、付け足す。


「分からなければ、分からないままでいい」


エルフリーデは小さく頷いた。


机の上に置かれたのは、写しの書類。

決裁用ではない。

あくまで“進行中”のものだ。


彼女は、それを手に取る。


――ラグリス王国。

――ヴェルネ自治都市同盟。


二国間の港湾使用に関する調整案件。


内容自体は、特別なものではない。

通商連邦では、日常茶飯事だ。


午前中。


担当の調整官が、淡々と説明を進める。


「ラグリス側は、今回の条件で合意済みです」

「ヴェルネ側も、基本的には問題なしという認識で――」


誰も異を唱えない。

書類上も、整っている。


エルフリーデは、ただ読んでいた。


条文。

付随する議事録。

過去のやり取り。


(……“基本的には”)


その言葉が、わずかに引っかかる。


昼を過ぎ、同じ案件が再び話題に上がる。


今度は、別の調整官が進行していた。


「ヴェルネ側は、次回の確認会合を前提に進めるそうです」

「正式合意は、その後になりますね」


一瞬、エルフリーデの指が止まった。


――言い方が、違う。


書類は同じだ。

条文も数字も、変わっていない


だが、

“合意した”と“合意する前提”は、まったく別だ。


(……これ、噛み合ってない)


それでも、彼女は口を開かなかった。


言われていない。

今日は、流れを見る日だ。


夕刻。


調整官の一人が、資料をまとめながら呟いた。


「……この件、今日で通して大丈夫だよな?」


別の者が頷く。


「ラグリスは合意済みだし、ヴェルネも反対はしてない」


エルフリーデは、しばらく迷った。


出過ぎた真似かもしれない。

けれど――


「……すみません」


声は、小さかった。


場の空気が、一瞬だけ止まる。


全員が、彼女を見る。


「確認なんですが……勘違いでしたら、すみません」


言葉を選びながら、続ける。


「ヴェルネ自治都市同盟側は、“合意済み”という認識で進んでいますか?」


調整官が、きょとんとした顔をする。


「いや……仮合意だろ?」


「次の会合で詰める前提だ」


エルフリーデは、静かに頷いた。


「午前の説明では、“基本的に問題なし”とありました」


机の上の議事録を、指で示す。


「ラグリス王国側は、これを“合意済み”として扱っています」


沈黙。


調整官が、書類を引き寄せる。


「……あ」


別の者も、気づいたように眉を寄せる。


「言葉の定義が、揃ってないな……」


「このまま進めたら、後で“話が違う”って言われる」


エルフリーデは、それ以上何も言わなかった。


直さない。

決めない。


ただ、そこにあるズレを指しただけだ。


「……助かった」


誰かが、ぽつりと呟いた。


「今日通していたら、確実に揉めていましたね」


「しかも、責任の所在も曖昧だ」


エルフリーデは、視線を落としたまま、そっと息を吐いた。


――やっぱり。


その様子を、少し離れた場所からルーカスが見ていた。


近づかない。

声もかけない。


ただ、流れを確認するように、静かに眺める。


業務終了間際。


エルフリーデが席を立とうとすると、ルーカスが声をかけた。


「十分だ。ありがとう」


「……何もしていません」


正直な言葉だった。


ルーカスは、少しだけ笑った。


「そんなことは、ないと思うけどね」


意味は、説明しない。


「初日は、これで終わり」


それだけ言って、踵を返す。


エルフリーデは、その背中を見送りながら思った。


――ここは、前に出る場所じゃない。


でも。


何もせずに、

“壊れる前”に止める場所なのだ。


それが分かっただけで、

初日としては――十分だった。


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― 新着の感想 ―
これを、影働きと言うんや。(こればかりやって使い捨てされた老人。)
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