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正規雇用

翌朝。


《白鴎亭》の廊下は、まだ静かだった。

宿の中を満たすのは、朝の光と、かすかな木の匂いだけ。


エルフリーデは扉を閉め、革袋を肩に掛け直す。

中には、昨夜何度も読み返した書類と――署名済みの契約書。


迷いが消えた、とは言えない。

けれど、逃げる理由も、もうなかった。


外に出ると、港町はいつも通り動いている。

人の声、荷の音、通関所へ向かう列。


――日常だ。


ただ、自分だけが、少し違う場所へ向かっている。


通商連邦の事務所に入ると、すぐに気づかれた。


「……あ」


受付の女性が、エルフリーデの顔を見て目を見開く。

一瞬だけ視線が、奥の執務区画へと走った。


「ルーカ――」


呼びかける途中で、奥の扉が先に開いた。


「おはよう」


機嫌のいい声だった。


赤い髪を緩く三つ編みにしたルーカスが、外套も羽織らずに出てくる。

その表情を見た瞬間、エルフリーデは察した。


――もう、知っている。


「……署名、してくれたんだね」


差し出した契約書を見て、心底嬉しそうに笑う。


「ありがとう。正直、今日一番いい知らせだ」


言葉より先に、表情が緩んだ。


いつもの、計算された笑みじゃない。

細められた目の奥が、はっきりと明るくなる。


ほんの一瞬、呼吸が浅くなったのが分かった。

――待っていた、と言わんばかりに。


「……助かった」


小さく、独り言のように続けてから、はっとしたように視線を上げる。


「いや、ごめん。変な言い方だね」


そう言って笑うが、その声には、取り繕う余裕がない。


大げさでも、演技でもない。“うまくいった商談”じゃなく、“来てくれたこと”そのものを喜んでいる声だった。


「歓迎するよ、エルフリーデ。早速職場へ案内しよう」


「……ここで、働くんですよね?」


昨日まで座っていた机を、無意識に見てしまう。


ルーカスは首を振った。


「いや。君にやってもらう仕事は、ここじゃない」


歩き出しながら、振り返る。


「君には本部で働いてもらう」


エルフリーデは、思わず足を止めた。


「……本部?」


言葉を選びながら、続ける。


エルフリーデは、無意識に契約書の文言を思い出した。


――業務遂行場所は、指定による。


(……あ)


最初から、本部への異動の可能性も含まれていたのだと、今さら理解する。


「ここは支部だ。現場処理と即応が仕事になる」


歩き出しながら、続ける。


「決まった型を回す場所だ。速さ重視で、判断は最小限」


その目は、細められているが、曖昧さはなかった。


「君のやり方は、ここ向きじゃない。処理じゃない。構造を見る人間だ」


一拍。


「だから、本部だ」


その言葉が、静かに落ちた。


「重要な仕事を、重要な場所でやってもらう」


押し付けでも、命令でもない。

当然の配置だと言わんばかりの口調。


エルフリーデは、言葉を失った。


本部。

それが、どういう意味を持つのか。

分からないほど、鈍くはない。


「……そんなに、信用していただいているとは」


ぽつりと漏れた言葉に、ルーカスは肩をすくめる。


「信用、というより」


少しだけ笑って、言う。


「観察の結果だね。君は、一人で全部を回す人間じゃない。全体が壊れないように、止める人だ」


その言葉に、胸の奥が、静かに揺れた。


消されない。

奪われない。

名前の残る場所。


ルーカスは歩き出す。


「さ、行こう」


「今日からが、本番だ」


エルフリーデは、一拍遅れて、その背を追った。


――正式雇用。


その言葉の重みを、期待よりも、静かな覚悟として受け止めながら。


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― 新着の感想 ―
ええ上司や。適材適所がやれる人は、なかなかおらんよ。
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