署名
夜更けの宿は、静かだった。
階下の酒場から聞こえていた話し声も、いつの間にか消えている。
廊下を歩く足音もなく、木造の建物が、きし、と小さく鳴るだけだ。
エルフリーデは、部屋の小さな寝台に腰掛けたまま、ランプの火を見つめていた。
机の上には、昼間受け取った書類。
きちんと揃えられ、角も乱れていない。
――まだ、署名はしていない。
革袋から出して、並べて、またしまって。
それを、もう何度繰り返したか分からない。
「……考えすぎ、よね。」
小さく呟いても、誰も答えない。
条件に、文句はなかった。
むしろ、よすぎるくらいだ。
正式雇用。
通商連邦商会所属。
滞在権、労働許可、身元保証――すべて込み。
この先、期限を気にして仕事を探し回る必要はない。
「いつまでいられるか」を数えながら生きる必要も、ない。
「……楽になる、はずなのに。」
ランプの火が、揺れた。
王宮にいた頃も、こういう夜はあった。
仕事が終わっても、頭だけが休まらない夜。
あの頃は、考える余裕なんてなかった。
次の案件、次の火消し、次の調整。
止まったら、全部が崩れる気がしていた。
「……あれは。」
思い返して、少しだけ胸が詰まる。
やりがいがなかったわけじゃない。
誰かの役に立っている実感も、確かにあった。
ただ。
自分が「そこにいる理由」を、
誰にも説明されないまま、使われ続けていた。
評価されない。
名前も残らない。
失敗すれば責められる。
成功すれば、誰かのものになる。
「……でも。」
今日のルーカスの言葉が、脳裏に浮かぶ。
――君の名前で残す。
――困るのは僕だ。君じゃない。
そんなことを、あんな顔で言う人間を、
エルフリーデは、これまで知らなかった。
信用していいのか。
分からない。
けれど。
「……疑う理由も、ないのよね。」
条件は、最初から全部書かれていた。
誤魔化しも、曖昧さもない。
それに――
辞める自由が、はっきり明記されている。
“使う側”の人間が、「使い潰される人間を見るのが嫌いだ」と言った。
それが本心かどうかは、分からない。
でも。
「……確かめる価値は、ある。」
窓の外を見る。
港町の灯りが、ところどころ残っている。
昼間の喧騒が嘘のように、穏やかだ。
ここでは、王女でも、雑務係でもない。
ただの、エルフリーデだ。
「……正規雇用、か。」
口に出してみると、少しだけ現実味があった。
縛られる、というより。
「居ていい場所が、はっきりする」感じ。
エルフリーデは、ゆっくりと立ち上がり、机に向かった。
書類を広げる。
署名欄を見る。
まだ、名前は書かれていない。
ペンを取る手が、ほんの少しだけ震えた。
「……大丈夫。」
誰に言うでもなく、そう呟く。
もし、違うと思ったら。
もし、また同じ場所に戻りそうになったら。
その時は――
自分で、やめる。
それができる場所だと、
あの男は言った。
エルフリーデは、一度だけ深呼吸をしてから、
ペン先を、紙に落とした。




