葛藤
条件に、文句はなかった。
むしろ、よすぎるくらいだ。
だからこそ――
この仕事を「続けている自分」を、はっきり想像できてしまった。
また、
誰かの代わりに整えて、
誰かのために止めて、
誰かが前に出るための場所に立つ自分。
それが嫌だ、とは思わない。
できることだし、慣れている。
でも。
それしか、できない場所に戻るのは――
少し、怖かった。
ルーカスは、わずかに眉を下げた。
「……即答できないのは、条件の問題じゃないんだろう。」
言い切りではない。
確かめるような声音だった。
「安心してほしい、とは言わないよ。ただ、少なくとも、僕の商会では、君一人に“全部を回させる構造”は作らない。」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
この人は、どこまで知っているのだろう。
エルフリーデは、俯いていた顔を上げ、ルーカスを見た。
細められた目から意図は読み取れない。
けれど、悪意がないことだけは、はっきり分かった。
「それでも、『違う』と思ったら、辞めていいよ。引き止めないし、理由も聞かない。」
あまりにも、逃げ道が用意されている。
それが逆に、現実味を帯びていた。
「……どうかな。」
ルーカスは、少し首を傾けたまま、答えを待つ。
ここまで真摯な雇い主に、
この先、もう一度会えるだろうか。
そんな考えが、自分でも意外なほど、自然に浮かんでいた。
「……なんで……」
気づけば、口にしていた。
「ん?」
「なんで、ここまで私のことを考えてくださるんですか。」
ルーカスは、少しだけ肩をすくめた。
「僕はね、人を使うのが好きだ。だから商会を立ち上げたし、統括もしてる。」
淡々とした口調。
だが、軽くはない。
「でも、使い潰される人間を見るのは、大嫌いなんだ。」
一拍。
「……それだけだよ。」
エルフリーデは、ゆっくりと視線を落とした。
条件に不満はない。
これ以上を望む理由も、正直、見当たらない。
だからこそ――
別のところが、引っかかっていた。
「……一つだけ。」
声は、思ったより落ち着いていた。
ルーカスが、即座に頷く。
「どうぞ。」
エルフリーデは、机の端に指を置いたまま、言葉を選ぶ。
「私が見つけた問題や、整理した論点は……」
一瞬、間を置いてから、続ける。
「最終的に、誰の仕事として扱われますか。」
空気が、静まった。
問いは短い。
だが、軽くはない。
ルーカスは、すぐには答えなかった。
細められた目に、誤魔化す気配はない。
「……なるほど。」
小さく息を吐く。
「そこを聞くか。」
皮肉でも、感心でもない。
ただの納得だった。
「答えは簡単だよ。」
ルーカスは、はっきりと言った。
「君の名前で残す。」
一拍。
「少なくとも、僕の商会と、僕の管轄では。」
逃げ道のない言い方だった。
「調整役だから伏せる、とか。最終決裁じゃないから匿名、とか。」
首を振る。
「そういう扱いは、しない。」
エルフリーデは、思わず瞬きをした。
「……それ、問題になりませんか。」
「なる場合もあるね。」
あっさりと認める。
「でも、それで困るのは僕だ。君じゃない。」
その言葉に、わずかな間が生まれた。
「君が見つけた火種を、誰かの功績として飾るつもりはない。」
淡々と、だが迷いなく。
「それをやると、必ず人は壊れる。僕は、それが嫌いなんだ。」
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
評価が欲しかったわけじゃない。
認められたかったわけでもない。
ただ――
消されない場所かどうかを、知りたかっただけだ。
「……分かりました。」
短く、そう答えた。
即答ではない。
だが、拒絶でもない。
ルーカスは、それで十分だというように、口元を緩めた。
「返事は、急がなくていい。」
繰り返す。
「君が決めることだ。」
エルフリーデは、小さく息を吐く。
――名前が、残る。
その一言が、今まで積み重なってきたものを、少しだけ軽くしていた。
「……考えます。」
それが、今、エルフリーデが出せる精一杯の答えだった。
ルーカスは、満足そうだった。




