試用三日目…ですが?
三日目の朝も、事務所は変わらず慌ただしかった。
ただし――
エルフリーデの机の周りだけ、微妙に空気が違う。
「……これ、見てもらえるか。」
文官が差し出したのは、別件の書類束だった。
港湾とは直接関係ない、小規模な契約更新。
だが、関係国は四つ。
うち二つは慣習法、残りは成文法。
「急ぎではないが、来週には動かす予定でな」
エルフリーデは受け取り、軽く頷く。
「分かりました」
それだけ言って、席に着く。
午前中。
エルフリーデがしたことは、三つだけだった。
どれも、書き直してはいない。
決めてもいない。
一つ目。
更新契約の「発効日」が、各国で食い違っている点を指摘。
このまま進めば、「すでに効力があると思っていた国」と「まだ準備期間だと思っていた国」で、責任の押し付け合いが起きる。
余白に一行。
「発効日解釈が国ごとに異なる可能性あり。共同発効日の明記が望ましい」
二つ目。
輸送保険の適用範囲が、港湾内で切れている点。
事故が起きた場合、「港の責任か」「輸送業者の責任か」が曖昧になる。
余白に一行。
「港湾内事故時の保険適用範囲が不明確。責任空白が生じる恐れ」
三つ目。
小さな脚注。
誰も気に留めていなかった、「参考条項」と書かれた一文。
そこに、すでに失効したはずの関税特例番号が残っていた。
余白に、短く。
「旧関税特例番号が記載されたまま。第三者監査で指摘される可能性あり」
修正案は、ない。
結論も、ない。
ただ、「このまま進めたら、どこで爆発するか」だけが並ぶ。
昼前。
「……なあ」
文官の一人が、同僚に囁いた。
「この人さ……止めどころだけ、確実に分かるの、怖くないか?」
「止めどころ“だけ”外さないの、逆に怖いよな……」
即答だった。
別の文官が、ぽつりと付け加える。
「……何者なんだ。」
その言葉は、皆の総意だった。
午後。
別件。
小競り合い寸前だった港湾使用権の内部調整。
エルフリーデは、どちらの国の書類も直さず、ただ一言、余白に書いた。
「双方の前提条件が一致していない、ように見えます」
それだけで、議論は一度、完全に止まった。
止まらざるを得なかった。
※
そして、夕刻。
「……今日で、七日契約の三日目だな」
事務所の奥。
ルーカス・ヴァルハイトは、机に並べられた写しを見ていた。
三日分。
直されていない書類。
だが、注意事項だけが、異様に正確に示されている。
「……参ったな」
笑う。
完全に、楽しそうに。
「これはもう、様子見の域じゃない」
立ち上がり、外套を整える。
「直接、行こう」
※
エルフリーデが書類を揃えていたところに、
ノックもなく扉が開いた。
「失礼」
顔を上げた瞬間、
彼女は一瞬、言葉を失う。
赤い髪を緩く三つ編みにした男。
笑顔。
そして、やたら機嫌がいい。
「……ルーカスさん?」
「やあ。」
軽い調子で挨拶しながら、彼は椅子を引かず、その場に立ったまま告げた。
「正規雇用の話をしに来た」
あまりに、あっさり。
エルフリーデは瞬きをした。
「……は?」
「業務委託じゃなくて、正式契約」
笑顔のまま、続ける。
「身元保証は、僕の商会で引き受ける。滞在権も、労働許可も、こちらで手配する」
さらりと、とんでもないことを言う。
「もちろん、条件は下げない。むしろ――」
一歩、距離を詰める。
「君のやり方に合わせる」
エルフリーデは、言葉を探した。
「……私、まだ何も“解決”していません」
「うん」
即答。
「それでいい」
ルーカスは、はっきりと言った。
「君は、爆発する前に全部止めてる。それが、一番価値が高い」
そして、にっこりと笑う。
完全に、逃がす気の無い笑顔だった。
一瞬、間を置いて。
「どう?」
問いかけは、柔らかい。
だが、覚悟は、見えすぎるほどだった。
エルフリーデは、息を整える。
胸の奥が、静かにざわついた。
――三日目。
まだ、何も終わっていない。
けれど。
もう、後戻りはできない場所まで、
来てしまっている気がした。




