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試用二日目

午前の光が、事務室の窓から斜めに差し込んでいた。


昨日と同じ机。

昨日と同じ書類の山。


けれど、今日は一つだけ違う。


机の端に、追加で積まれた薄い束があった。


「……これも、ですか?」


エルフリーデが小さく尋ねると、近くにいた文官が曖昧に頷いた。


「昨日の件の、関連書類だ。今すぐ使う予定はないが、一応な」


“念のため”。


そういう扱いの紙束だった。


エルフリーデは何も言わず、そちらにも手を伸ばした。


港湾使用契約の付随覚書。

過去の更新履歴。

一度破棄された条文の写し。

形式だけ残っている附属文書。


――現行契約ではない。


だから、誰も深く見ていない。


エルフリーデは、一枚ずつ、静かに目を通す。


昨日と同じように、ペンを走らせることはない。

付箋も、まだ使わない。


ただ、読む。


読み進めていくうちに、ふと、指が止まった。


(……あれ)


目を落としたのは、セルトリア自由公国側の旧覚書だった。

今は無効になっている条文。

だが、文言が、妙に引っかかる。


――不可抗力が発生した場合、

――港湾管理者の判断により、

――契約条件は再協議とする。


似ている。


昨日見た現行契約の免責条項と、言い回しが、驚くほど近い。


エルフリーデは、少しだけ眉を寄せた。


(……これ)


頭の奥で、古い記憶が繋がる。


王宮で扱った、過去の案件。

確か――五年前。


港湾ストライキを「不可抗力」に含めるかどうかで、

交渉が一年、完全に止まった事例。


表向きは、自然消滅。

だが実際は、責任の押し付け合いで誰も動けなくなった。


エルフリーデは、ペンを取った。


余白に、ほんの一行だけ書く。


「※旧港湾紛争(第五年)と同一文言。同条件下では、交渉長期停滞の前例あり」


それだけ。


評価も、結論も、書かない。


しばらくして。


背後で、紙の擦れる音が止まった。


「……ん?」


文官の一人が、彼女の机を覗き込んでいる。


「第五年の港湾紛争……?」


もう一人も近づいてきて、書き込みを読む。


「そんな古い案件、関係あるか?」


エルフリーデは、慌てて首を振った。


「いえ。直接、関係があると断定できるわけではありません」


声は低く、慎重だった。


「ただ、文言が似ていたので……同じ主張が可能かもしれない、と思って」


文官は半信半疑のまま、古い記録を探し始めた。


棚を開け、束を引き抜き、頁をめくる。


数分後。


「あ……」


小さな声が漏れた。


「確かに、同じ条文だ。当時、セルトリア側が“不可抗力”を理由に条件変更を要求して……」


もう一人が、眉を押さえる。


「結果、誰も責任を取らずに交渉が止まった、あれか……」


事務室に、沈黙が落ちた。


エルフリーデは、視線を上げない。


「……今回も、必ずそうなる、という意味ではありません」


そう前置いてから、静かに続ける。


「ただ、条件が揃えば、同じ主張は可能だと思います」


誰も、反論しなかった。


否定できなかった。


「……昨日の件より、厄介だな」


誰かが呟いた。


机の上を見る。


修正は、されていない。

決裁案も、ない。


だが、“見なかったことにできない前提”だけが、増えていた。


「今日も……軽く目を通してもらうだけのつもりだったんだがな」


文官の声は、乾いていた。


エルフリーデは、そっと書類を揃える。


――七日で、足りる仕事じゃない。


昨日よりも、はっきりとそう思った。



別の部屋で。


同じ書類の写しを手にしたルーカスが、余白を読んでいた。


「……第五年の港湾紛争」


小さく、息を吐く。


「そこを引っ張り出すか」


頁を閉じる。


判断はしていない。

解決もしていない。


だが、「進めると危険な理由」だけは、完全に示されている。


「……二日目、だよな?」


独り言が、静かな部屋に落ちた。


口元が、わずかに歪む。


(七日じゃ、足りないな)


七日で手放してしまうなど、あまりに惜しい。

そう確信するには、十分すぎる仕事ぶりだった。

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