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試用一日目

翌朝。


宿の食堂は、朝の光で満ちていた。


焼きたてのパンの匂い。

薄いスープの湯気。

食器が触れ合う、控えめな音。


エルフリーデは簡単に朝食を済ませ、席を立つ。


女主人が、ちらりとこちらを見た。


「今日は、仕事かい?」


「ええ。短期ですけど」


「そうかい。気をつけてね」


それだけ。


深入りしない距離感が、ありがたい。


外に出ると、港町はもう動いていた。


荷を運ぶ声。

通関所へ向かう人の流れ。

掲示板の前で立ち止まる影。


――いつも通りの朝。


ただ一つ違うのは、

自分が“行く場所を決めている”ということだった。


指定された建物は、港から少し奥まった区画にあった。


通商連邦の事務所。

派手さはないが、人の出入りは多い。


扉を開けると、紙とインクの匂いがする。


受付の文官が顔を上げた。


「……業務委託の方?」


「はい。今日から七日間」


契約書を差し出す。


文官は一瞥し、すぐに頷いた。


「案内します」


廊下を進み、いくつか扉を過ぎて、

一つの机の前で止まる。


「今日はこちらを」


置かれたのは、書類の束。


分厚くはない。

だが、種類が多い。


「港湾使用契約と、通関関連です。軽く見て、問題点があれば拾ってください」


――軽く、ね。


エルフリーデは椅子に腰を下ろし、黙って一枚目を開いた。


机の上に並べられた書類は、見た目だけなら雑然としている。


港湾使用契約。

通関手数料の一覧。

積み替えスケジュール。


どれも、通商連邦では珍しくもない。


――だから、積まれていた。


エルフリーデは、一枚ずつ順に目を通していく。


グランディス王国。

港湾管理は国家直轄。

契約書式は厳密で、数字の扱いも硬い。


リュミエール自治都市同盟。

港は都市国家の管理下。

慣習優先で、条文の余白が多い。


セルトリア自由公国。

関税免除条項がやけに多い。

しかも、過去の特例が、そのまま生きている。


(……三国分、か)


無意識に、息を整えた。


書式が違う。

単位が違う。

責任の置き方が、噛み合っていない。


だが、どれも「間違い」ではない。


――だから、余計に厄介だ。


エルフリーデは、港湾使用料の算定表で、指を止めた。


(港の所有者基準……)


グランディス王国基準で作られた計算式。

それを、そのままリュミエール自治都市同盟の港に当てはめている。


合法だ。

今は、何も起きない。


けれど――


(……後から、必ず揉める)


ペンを取り、余白に短く書く。


「港湾使用料算定基準が、リュミエール側の港湾管理権限と齟齬」


次。


通関期限。


書類上は問題ない。

期限は守られている。


だが、積み替え猶予期間を見る。


(……物理的に、無理ね)


現場が詰む。

必ず。


ペンが走る。


「通関期限と、実務上の積み替え可能期間が一致しない」


最後に、不可抗力条項。


グランディス王国は自然災害のみ。

リュミエール自治都市同盟は港湾ストライキを含む。

セルトリア自由公国は、政治判断で拡張可能。


――定義が、揃っていない。


結果は、明白だ。


(……一番弱いところに、責任が集まる)


書く。


「不可抗力定義の差異により、最終責任が現場側に集中」


そこまで書いて、エルフリーデは一度、ペンを置いた。


直していない。

決めてもいない。


ただ、どこで詰むかを書き出しただけだ。


背後から、低い声がした。


「……そこが気になるのか?」


振り返ると、文官が二人、机の脇に立っていた。

どちらも書類を手にしたまま、半歩だけ距離を取っている。


一人が、エルフリーデの付箋を覗き込んだ。


「使用料の算定基準だな。条文上は、問題ないはずだが……」


もう一人も、曖昧に頷く。


「今までも、この形で通してきてる。港の割り当てを優先して、あとで調整する前提だ」


エルフリーデは、慌てて首を振った。


「……いえ。通すこと自体が間違いだ、という意味ではありません」


そう前置いてから、余白を指先で軽くなぞる。


「ただ、この算定基準だと、実際に使用する港の管理権限と、少し噛み合わないように見えて」


文官の一人が、眉を寄せる。


「噛み合わない……?」


「はい。書類上は成立しますが、現場で再計算が入った場合、どの基準で修正するのかが、決まっていなくて」


言い切らない。“気づいてほしい”言い方だ。


しばらく、沈黙。


文官が書類を引き寄せ、数字を追う。


「……あ」


小さく、声が漏れた。


「これ、グランディス王国の基準のまま動かしたら、リュミエール自治都市同盟側が『港湾契約違反』を主張できるな……」


もう一人が、苦い顔で息を吐く。


「しかも、積み替え期限……これは、実務だと間に合わない」


エルフリーデは、視線を落としたまま、そっと頷く。


「……その可能性がある、というだけです」


誰も、彼女を責めない。

代わりに、空気が変わった。


「……今、見つかってよかったな」


文官の一人が、そう呟いた。


「今日は軽く目を通してもらうだけのつもりだったんだが……」


机の上を見る。


付箋は、想定の三倍。


直されていない。

だが、地雷だけが、きれいに可視化されている。


エルフリーデは、静かに書類を揃えた。


――七日で、足りる仕事じゃない。


それが、内心に浮かんだ唯一の言葉だった。



別室で、同じ書類を手にしたルーカスが、頁をめくっている。


余白の書き込みに、目が止まった。


一つ。

二つ。

三つ。


どれも、直していない。

だが、逃げ道を塞いでいる。


「……初日、だよな?」


思わず、独り言が漏れた。


口元が、僅かに歪む。


(……七日じゃ、足りないな)


いや、最初から、足りると思っていなかったが。


拾ったのは、やはりただの帳簿係ではない。

まして、雑用係でもない。


そう、確信した。


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