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好条件

扉が閉まり、足音が完全に遠ざかってから、エルフリーデはもう一度深く息を吐いた。


部屋には、宿特有の木の匂いと、午後の静けさだけが残っている。


机の上に、封筒を置く。


厚みがある。

紙一枚や、簡単な依頼書ではない。


封蝋はない。

だが、端はきちんと揃えられ、雑に扱われた形跡がない。


――仕事用の書類だ。


そういう確信だけが、先にあった。


エルフリーデは椅子に腰を下ろし、封を切る。


中から出てきたのは、数枚の書類だった。


一枚目。

業務委託契約書。


二枚目。

守秘義務条項。


三枚目。

業務内容の概要。


そして、最後に――

別紙、と書かれた一枚。


「……」


思わず、声が出そうになるのを飲み込む。


《契約期間:七日》

《業務内容および成果により、契約更新の可能性あり》

《更新後の条件は、初回契約の内容を下回らない》


――下回らない、か。


七日。


思ったより、短い。


――試用、ということね。


滞在期限いっぱいまで縛るつもりはない。

だが、結果次第では、先がある。


その距離感が、妙に現実的だった。


次に、業務内容。


《通商連邦加盟国間における契約文書の整合確認》

《港湾・通関関連書類の事前チェック》

《各国法令・慣習の差異によるリスク抽出》

《交渉前段階における論点整理》


エルフリーデは、無意識に紙を握りしめた。


――事務補助、じゃない。


完全に、実務の中核だ。


「……これ……」


ページをめくる。


《判断権限は持たない》

《最終決裁は担当官が行う》

《ただし、問題点の指摘および整理については、裁量を認める》


心臓が、少しだけ早く打った。


――責任は取らせない。

――でも、口は出していい。


あまりに、エルフリーデを気遣った条件だ。


さらに、別紙。


《過去に王侯貴族、外交機関、もしくはそれに準ずる組織での実務経験がある場合、特記事項として扱う》。


ここで、ようやく手が止まる。


「…王宮にいたとは言ったけど、雑用係だったって言ったわよね?」


小さく、呟いた。


報酬欄を見る。


数字を見た瞬間、エルフリーデは一度、目を閉じた。


――短期の帳簿整理の比じゃない。


危険手当、という言葉はない。

だが、明らかに「楽な仕事ではない」前提の金額だ。


最後のページ。


署名欄は、空白のままだ。


そこに添えられた、一文。


《本契約は、当人の意思を最優先とする》

《強制・拘束は一切行わない》


丁寧すぎるほどの、逃げ道。


エルフリーデは、書類を机に並べたまま、しばらく動かなかった。


――拾われた。

――いや、違う。


選ばれた。


その感覚に、戸惑う。


嬉しい、とは少し違う。

怖い、とも違う。


ただ。


「……私に、ここまで出す理由、あるのかしら。」


自分に向けた問いだった。


答えは、書類の中にある。


能力を見て。

癖を見て。

扱い方まで考えた上で。


それでも、最終判断は――

こちらに委ねている。


エルフリーデは、契約書をそっと閉じた。


「返事は、急がなくていい、か。」


ルーカスの声が、脳裏によみがえる。


――本当に、変な人。


けれど。


この封筒は、

一時の思いつきや、気まぐれで用意されたものではない。


胸の奥が、静かに重くなる。


「……簡単な話じゃ、ないわね。」


そう呟いてから、書類を丁寧に揃え、革袋にしまった。


返事は、まだだ。


だが。


もう、

「何も起きていない日常」には、戻れない。


そのことだけは、

はっきりと、分かっていた。



夜は、静かだった。


宿の廊下を歩く足音も途切れ、階下の食堂から聞こえていた話し声も、いつの間にか消えている。


エルフリーデは、寝台に横になったまま、天井を見つめていた。


目は閉じている。

だが、眠れてはいない。


革袋の中。

丁寧に畳まれた書類の感触が、はっきりと思い出せる。


七日。

試用。

更新あり。


――逃げ道は、ちゃんと用意されている。


それが、逆に落ち着かなかった。


王宮では、選ぶ余地などなかった。

仕事は降ってきて、断れず、終わらせて、また次が来る。


評価もなければ、

「やるか、やらないか」を問われることもない。


今回は、違う。


「……眠れないわね」


小さく呟いて、身体を起こす。


卓に置いた書類を、もう一度だけ開いた。


条件は変わらない。

文言も、数字も、昼に見たままだ。


それでも、今は少し違って見える。


――これは、仕事だ。

――ちゃんと、選んでいい仕事。


革袋からペンを取り出す。


しばらく、署名欄を見つめてから、

エルフリーデは、静かに名前を書いた。


迷いは、もうない。


「……七日だけ、ね」


声に出すと、不思議と胸が落ち着いた。


長く縛られない。

でも、何もせずに終わるつもりもない。


それでいい。


書類を揃え、革袋に戻す。


そのまま、今度こそ眠りについた。

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