まさかの本人
翌々日の午後。
《白鴎亭》の廊下は静かだった。
昼時を過ぎ、客の出入りも落ち着いている。
エルフリーデは部屋の机で、掲示板から写した依頼内容を広げていた。
短期、臨時、補助。
いくつか候補を丸で囲み、消しては書き直す。
――三十日。
滞在期限が、頭の隅で数えられている。
そのとき、廊下側から足音がして、控えめなノックがあった。
「……はい?」
扉越しに聞こえたのは、聞き慣れた声だった。
「エルフリーデ、あんたに来客だよ」
宿屋の女主人だ。
「先日の仕事の件で来たってさ。身なりはちゃんとしてるけど……通して大丈夫かい?」
一瞬、考える。
“仕事の件”。
心当たりは、一つしかない。
「……はい。構いません」
そう答えると、少し間を置いて、おかみさんの声がした。
「分かった。じゃ、通すよ」
足音が遠ざかる。
エルフリーデは、無意識に背筋を伸ばした。
ほどなくして、再び扉がノックされる。
今度は、静かで、はっきりした音だった。
「失礼」
扉を開ける。
そこに立っていたのは、赤い髪の男だった。
緩く編まれた三つ編みを肩に流し、
実務者向けの服装なのに、どこか異国めいた雰囲気を纏っている。
やはり、目を引く。
「……どうも」
一瞬、言葉に詰まりかけてから、頭を下げる。
「やあ、先日ぶり」
挨拶は軽薄だが、柔らかい。
「突然で申し訳ない。先日話していた件で、書類を持ってきたんだ」
エルフリーデは、思わず目を瞬かせる。
「……ご本人が、来られるとは」
正直な言葉だった。
ルーカスは、肩をすくめる。
「重要な話だからね」
それだけ。
理由の説明はしない。
エルフリーデは一歩身を引いた。
「どうぞ。立ち話も何ですから」
しかし、ルーカスは緩く首を振ってそれを断る。
「流石に女性の部屋に入るわけにはいかないよ。そんなに長い話じゃないから、ここで」
ルーカスは抱えていた封筒をエルフリーデに渡す。
「先日の話の続きだ」
それだけ言って、エルフリーデを見る。
圧はない。
だが、逃げ場も作らない。
「短期の業務委託だ。連邦側の事務で、少し扱いづらい書類が溜まってきている」
具体的な中身は、語らない。
「条件は、全部ここに書いた」
封筒を指で軽く叩く。
「読んで、合わなければ断ってくれていい」
一拍。
「その方が、こちらも助かる」
エルフリーデは、すぐには封を切らなかった。
「……私、そこまで期待されるような人間では」
言いかけて、途中で止める。
いつもの癖だ。
ルーカスは否定しない。
代わりに、淡々と告げた。
「少なくとも、僕は助かった」
それだけ。
褒め言葉でも、説得でもない。
評価だけが、そこにあった。
事実の提示だった。
「今日は、これで」
ルーカスは踵を返す。
「返事は、急がなくていい」
階下へ向かう前に、一度足を止めた。
「……君が、どこへ行くのかは、少し気になるけどね」
軽い調子だった。
だが、含みがある。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
静けさ。
エルフリーデは、しばらく封筒を見つめてから、息を吐いた。
――下働きが持ってくる話じゃ、なかった。
それだけは、はっきりしている。
「……変な人。」
小さく呟いて、ようやく封を切った。
仕事の話のはずなのに。
胸の奥に残る違和感が、
なぜか不快ではなかった。




