対面
三日目の仕事が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。
帳簿の背表紙に、橙色の光が差し込む。
エルフリーデは最後の付箋を外し、きちんと揃えてから机の端に置いた。
――これで、頼まれた分は終わり。
余計なことはしていない。
だが、見過ごしていい場所も、見過ごしてはいない。
「終わったか」
背後から声がして、エルフリーデは顔を上げた。
商会の男だ。
いつも通りの、感情の読めない顔。
「はい。本日分まで、すべて」
「……確認が来ている」
一拍置いて、男は続ける。
「今回の取引先の代表だ。少し、顔を合わせてくれ」
断る理由はない。
エルフリーデは椅子から立ち、軽く頷いた。
案内されたのは、事務室のさらに奥。
来客用とも執務室とも言い切れない、小さな部屋だった。
扉が開く。
そこにいた男を見た瞬間、エルフリーデは、ほんの一瞬、言葉を失った。
年は、自分より少しだけ上に見える。
まだ年若い、青年だった。
赤い髪。
派手ではないが、陽に当たれば銅のように光りそうな色を、緩く三つ編みにして片側へ流している。
衣服は実務者向けの仕立てだが、襟元や袖口には、見慣れない東方風の意匠が交じっていた。
過剰ではない。
だが、否応なく視線を引く。
何より、顔立ちが整いすぎている。
彫りが深いわけでも、威圧感があるわけでもない。
それなのに、目を離しにくい。
――なんだか、引く手数多な殿方ね。
場違いな感想が、先に浮かんでしまった。
男は椅子から立ち、軽く頭を下げる。
「はじめまして。僕は、ルーカス・ヴァルハイト」
声は低すぎず、高すぎず。
落ち着いていて、よく通る。
「通商連邦側で、今回の案件を見ていた者だ」
名乗りは簡潔だった。
肩書きも、必要最低限。
エルフリーデは、遅れて一礼する。
「短期で帳簿整理を担当していました。エルフリーデです」
姓は言わない。
ルーカスも、聞かなかった。
代わりに、机の上の書類へと視線を落とす。
「……君の書類、見せてもらったよ」
その一言で、エルフリーデの背筋が、わずかに伸びた。
褒めるでも、責めるでもない。
だが、「見た」と断定する声音。
「触り方が、独特だね」
ルーカスは一冊を手に取り、頁をめくる。
「直さない。決めない。奪わない。
でも、破裂する箇所だけは、きちんと潰してある」
淡々とした口調。
だが、的確すぎる。
「揉めた“後”を、よく知っている人の仕事だ」
エルフリーデは、思わず目を伏せた。
「……大したことは、していません」
「そう言う人ほど、してるんだ」
ルーカスは、ふっと笑った。
その笑みは軽い。
だが、目は笑っていない。
「安心してほしい。今日は、責めるために呼んだわけじゃない」
書類を戻し、彼女を見る。
「礼を言いに来た。それと――」
一拍。
「次の仕事の話ができるか、確認したかった」
部屋の空気が、少しだけ変わる。
圧はない。
逃げ道も、きちんと残されている。
「いきなり所属を求めるつもりはない。短期の業務委託だ。扱いづらい書類が、連邦側で溜まってきていてね」
エルフリーデは、すぐには答えなかった。
突然の話でもあるし、
何より――目の前の男は、美しいが、とにかく怪しい。風体が。
「……内容を見てから、判断します」
それだけ告げる。
ルーカスは、満足そうに頷いた。
「それでいい。詳細は、後日書面で渡すよ。今日は、これで」
立ち上がり、外套を整える。
ふわり、と異国の香が僅かに香った。
「改めて。三日間、ありがとう」
軽い一礼。
それだけを残して、彼は部屋を出ていった。
扉が閉まり、静けさが戻る。
エルフリーデは、小さく息を吐いた。
――仕事の話なのに。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついている。
理由は分からない。
ただ――
「……変な人」
そう呟いて、机の上の書類を見下ろした。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ。
仕事が、次に繋がった。
その事実だけが、確かだった。




