怪しい男
その日の夕刻。
商会の奥、来客用でも執務室でもない小さな部屋で、男は数枚の書類を前にしていた。
低い卓の脇には、水煙草。
細工の施された金属製の胴と、淡い文様の入ったガラス。
白い煙が、ゆるやかに空気を満たしている。
外はまだ明るいが、ここは静かだった。
男は椅子に深く腰を掛け、
外套を脱いだまま、書類に視線を落としている。
――遊んでいるように見える。
――だが、視線は一度も紙面から離れない。
煙を一息、吐く。
その間に、頁を一枚、めくった。
紙質が違う。
インクの色も違う。
書式は、明らかに統一されていない。
それでも――
破綻していない。
「……」
赤みを帯びた長髪は、きっちり結われてはいない。
仕事の合間にまとめたようで、幾筋かが頬に落ちている。
その影が、細められた目元を、より読みにくくしていた。
一枚、手に取る。
指は長く、骨張っている。
水煙草の管を扱う仕草にも、書類をめくる動きにも、無駄がない。
頁を追う速度が、自然と落ちた。
余白に走る、控えめな書き込み。
「第三条数量確定条件と、第七条免責条項が同時成立しない」
「不可抗力定義が曖昧なまま、損害責任のみ先行」
「署名後、解釈次第で責任主体が移動する可能性あり」
短い。
だが、どれも“揉めた後”を知っている人間の言葉だった。
男は、無意識に息を整える。
修正案はない。
代替条文もない。
ただ――
どこが、どう危ないかだけを示している。
(……これは)
煙を吐く。
東方風の意匠が混じる袖口が、わずかに揺れた。
机の向かいにいた商会の男が、様子を窺うように口を開く。
「……何か問題でも?」
「いや」
男は、まだ書類を見たまま答えた。
「逆だ」
一拍。
「これを“処理できた人間”は、誰だ?」
商会の男は一瞬、言葉に詰まる。
「短期で入れた帳簿整理係です。三日間だけの予定で……」
「名前は」
「エルフリーデ、と名乗っていました。王宮にいたそうで……本人は“雑務係をしていた”と言っていましたが」
その瞬間、ルーカスの指が、止まった。
(エルフリーデ)
どこかで聞いた響き。
だが、思考はすぐに切り替わる。
――名前は、どうでもいい。
問題は、これだ。
別の書類を手に取る。
そこにも、同じ癖があった。
断定しない、責任を奪わない。
だが、爆発点だけは必ず潰している
「……雑務係、ねえ。」
ぽつりと呟く。
「これは。」
糸のように細められた目が、相手を射抜く。
「内部で、誰かの尻拭いをし続けていた人間の整理だよ。」
沈黙。
帳簿係じゃない。
下級文官でもない。
外交官でもないだろう。
一枚、机に戻す。
「――使い潰された調整役だ。」
断定だった。
商会の男が、低く息を吐く。
「……厄介ですか?」
「厄介だね。」
そう言いながら、ルーカスの口元は、わずかに緩んでいた。
「そして、喉から手が出るほど欲しい。」
立ち上がり、外套を整える。
その動きには、迷いがない。
「三日目の仕事が終わったら、僕が会う。」
「直接ですか?」
「ああ」
視線は、もう書類ではなく、未来を見ていた。
「これは、放っておくと、他所に拾われる。」
静かに、だが確信をもって。
「――それは困るな。」




