特別な書類
二日目の朝、商会の事務室は前日と変わらず静かだった。
窓から差し込む光が、机の角を淡く照らしている。
埃の舞い方すら、昨日と同じだ。
エルフリーデは、奥の机に腰を下ろし、用意されていた帳簿に手を伸ばした。
……が。
一冊目を開いたところで、指が止まる。
紙質が、違う。
厚く、硬い。
罫線の引き方も、文字間の取り方も、どこか窮屈だ。
――あれ。
もう一度、頁をめくる。
二枚。
三枚。
胸の奥が、静かに冷えた。
アルディア王宮式だ。
しかも、かなり奥の部署で使われていた書式。
形式だけを真似たものではない。
実際に使われていたものが、そのまま紛れ込んでいる。
「……混ざった、のかしら」
小さく呟く。
商会の書類に入るはずがない。
だが、意図的かどうかは分からない。
エルフリーデは、視線を落とす。
内容は、商取引の契約書だ。
けれど、条文がやけに長い。
条件が多く、例外が重ねられ、
責任がどこに転ぶのか、はっきりしない。
知らずに署名すれば、
後から必ず揉める。
――触らない方が、楽。
そう思う。
実際、王宮でも、こういう書類は「後回し」にされがちだった。
けれど、放っておけば、結局誰かが困る。
エルフリーデは、少しだけ迷ってから、ペンを取った。
勝手に直さない。
書き換えない。
「第三条の数量確定条件と、第七条の免責条項が噛み合っていない」
「不可抗力の定義が曖昧なまま、損害責任だけが先に発生する構造」
「署名後、解釈次第で責任主体が移動する可能性あり」
一行ずつ。
簡潔に。
断定はしない。
判断も、委ねる。
それ以上は、踏み込まない。
――これで、いいはず。
昼前。
背後から気配がして、エルフリーデは顔を上げた。
昨日の男が、机を覗き込んでいる。
視線が、契約書の一冊で止まった。
「……これ」
低い声。
エルフリーデは、すぐに言った。
「もし、触らない方がよければ、付箋は外します」
男は、少し意外そうな顔をした。
「いや……」
頁をめくり、しばらく黙る。
「普通は、ここまで読まない」
それは、咎める声ではなかった。
エルフリーデは、小さく俯く。
「……癖みたいなものです」
男は、視線を上げる。
「王宮勤めか?」
一瞬、間があった。
「元ですが…」
静かに、答える。
「…雑務係をしていました。」
男は、それ以上聞かなかった。
ただ、契約書を机に戻し、短く言う。
「……今日は、ここまででいい」
昨日より、少し早い。
「明日も来い」
「はい」
エルフリーデは立ち上がり、頭を下げる。
事務室を出るとき、背後で男が呟いた。
「……厄介な書類ほど、扱える人間がいなくなるものだ。」
エルフリーデは、歩きながら思う。
――扱えた、わけじゃない。
ただ、見なかったことができなかっただけだ。




