彼女の部屋
それは、本当に些細な用件だった。
夕方前。
屋敷の廊下を進みながら、ルーカスは手にした書類を確認していた。
連邦側から届いた、限定閲覧指定の調整資料。
内容そのものよりも、扱いに注意が要る。
使用人に預けるには、少し躊躇われる類だった。
足を止める。
扉の前には、控えめな表札。
エルフリーデの私室だった。
軽く、ノックをする。
「エルフリーデ」
中から、すぐに返事が返る。
「はい」
扉が開き、彼女が顔を出した。
「何かありましたか」
声音は落ち着いている。
仕事中でも、休んでいる最中でもない、ちょうど合間のような気配だった。
「書類を渡しに来た」
簡潔に告げる。
「直接、君に見てもらった方がいい」
エルフリーデは、すぐに理解したように頷いた。
「……どうぞ」
一瞬だけ間を置いてから、扉を大きく開く。
「中で確認しますか」
促し方は自然だった。
遠慮も、構えもない。
ルーカスは、軽く首を傾ける。
「いいの?」
確認だけする。
「はい」
即答だった。
「仕事の話ですから」
そうして、彼は室内に足を踏み入れた。
空気が、少し変わる。
香りはほとんどない。
焚き染められた気配も、花の匂いもない。
整ってはいるが、驚くほど簡素だった。
必要最低限の家具。
寝台。
机。
椅子。
壁際の小さな棚。
装飾らしい装飾は見当たらない。
私物も、少ない。
机の上には、書類がきれいに揃えられている。
角が揃い、重ね方にも癖がない。
「こちらへ」
エルフリーデが、机を指す。
ルーカスは、書類を差し出した。
「閲覧制限付きだ。
内容は、次の会議に直結する」
「分かりました」
受け取る手つきは慣れている。
エルフリーデは、すぐに目を通し始めた。
視線の動きが速く、要点だけを拾っていく。
「……この条項」
視線を上げる。
「修正案、こちらで出してもいいですか」
「構わない」
ルーカスは、頷く。
「判断は任せる」
それだけのやり取り。
だが、その間。
ルーカスの視線は、無意識に室内をなぞっていた。
簡素すぎる。
整いすぎている。
生活の痕が、ほとんどない。
「ここ」
エルフリーデが、書類の一部を示す。
「このまま通すと、現場が詰まります」
「同感だ」
言葉を交わしながらも、頭の片隅で別のことを考えている。
(……あまりにも、何もない)
無駄がない。
だが、余白もない。
必要なものだけで構成された空間。
それは、仮住まいだからという理由だけでは説明がつかない。
彼女は、こういう部屋に慣れている。
「修正案は、今日中にまとめます」
「ありがとう」
ルーカスは、自然に言った。
「無理はしなくていい」
エルフリーデは、少しだけ首を振る。
「無理ではありません」
淡々と。
「これくらいが、ちょうどいいです」
その言葉が、胸に引っかかる。
(……ちょうどいい、か)
書類の話は、それで終わった。
「助かった」
「いえ」
エルフリーデは、書類を机に揃えて置く。
「他に、何かありましたか」
純粋な確認だった。
ルーカスは、一瞬だけ言葉を探したが、首を振った。
「いや」
「今日は、それだけだ」
嘘ではない。
だが、言わないことも選んだ。
エルフリーデは、軽く頷く。
「では」
扉まで見送る。
廊下に出る直前、ルーカスは一度だけ振り返った。
部屋は、相変わらず整然としている。
何も、増えていない。
「……エルフリーデ」
名を呼ぶ。
「はい?」
振り返る彼女の表情は、穏やかだ。
ルーカスは、何も言わなかった。
「いや」
短く。
「仕事、頼りにしてる」
それだけ。
扉が閉まる。
廊下に戻りながら、彼は小さく息を吐いた。
(……これは)
(……なんとかするべきだな)
口に出すつもりはない。
彼女に言う気もない。
だが、確信だけが残る。
この部屋は、彼女が「慣れてしまった場所」だ。
選んだ場所ではない。
(……信頼できる人に、相談するか)
自然と、姉たちの顔が浮かぶ。
余計な押しつけはしない。
だが、放ってもおけない。
廊下の先で、夕方の光が差し込んでいた。
エルフリーデの部屋は、静かだった。
そして、ルーカスの中ではすでに、
次の一手が、形を取り始めていた。




