彼の私室
それは、完全に予想外の出来事だった。
午後の遅い時間。
屋敷の中庭側で、使用人の小さな騒ぎが起きる。
「……失礼いたします、エルフリーデ様」
声を落とした管理役が、廊下の端から呼びかけてきた。
「庭から、小動物が入り込んだ可能性がありまして」
エルフリーデは、足を止めた。
「小動物、ですか」
「はい。猫か、鼬の類かと。
まだ姿は確認できておりませんが、念のため」
屋敷そのものは整備されている。
だが、仮住まいで人の出入りも多い今、完全に防げるとは限らない。
「捕獲が終わるまで、安全な場所で待機していただけますでしょうか」
エルフリーデは、状況をすぐに理解した。
「分かりました」
拒む理由はない。
これは、配慮の問題だ。
ただ、その場で立ち止まったままになる。
「……安全な場所、というのは」
管理役が、少しだけ言葉に詰まる。
その瞬間。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。
「どうした?」
低い声。
通りかかったルーカスが、状況を一目で把握する。
「動物が入り込んだ可能性がある、とのことです」
管理役が説明する。
ルーカスは、短く頷いた。
「分かった」
それから、エルフリーデを見る。
「一番近くて、扉を閉められる部屋は?」
「僕の部屋だ」
管理役が答えるより早く、ルーカスはそう言った。
一瞬の迷いもない判断だった。
「安全が確認できるまで、そこにいよう」
命令口調ではない。
提案というより、当然の選択としての言い方だった。
エルフリーデは、わずかに目を瞬かせたが、すぐに頷いた。
「お願いします」
そうして、二人は廊下を進む。
ルーカスの歩調は、いつも通り落ち着いている。
だが、扉の前に立った時、ほんの一瞬だけ呼吸が変わった。
鍵を開ける。
扉が開いた。
次の瞬間、空気が変わる。
屋敷全体の落ち着いた調度とは異なる、温度のある香り。
甘く、少しスパイスを含んだ、焚き染められたような匂いが鼻をくすぐる。
エルフリーデは、思わず息を吸った。
光が、柔らかい。
天井から下がる小さな灯りは、色ガラスを通しているのか、
床や壁に、淡い模様を落としていた。
直線の少ない影が、部屋全体を包んでいる。
床には、大きなクッションがいくつも置かれている。
深く沈みそうな布張りで、無造作に見えて、位置は整っていた。
「……」
エルフリーデは、言葉を探したまま、部屋の中に立っていた。
ルーカスが、扉を閉める。
「……変だよね」
ぽつりと、独り言のように言う。
「屋敷の中で、ここだけ雰囲気が違う」
言い訳でも、冗談でもない。
確認に近い声音だった。
エルフリーデは、ゆっくりと室内を見渡した。
香り。
灯り。
低い調度。
どれも、飾りではなく、使われている痕跡がある。
「変、ではないと思います」
静かに答える。
ルーカスが、こちらを見る。
「……そう?」
「はい」
一歩だけ、中へ進む。
「素敵です」
はっきりと。
「ここだけ、異国みたいで」
光の模様に目を留める。
「落ち着きます。
外の緊張から、切り替わる場所なんですね」
それは評価ではなかった。
空間の役割を、そのまま言葉にしただけだった。
ルーカスは、短く息を吐いた。
「……そう、かもしれない」
少し照れたように、視線を逸らす。
「外で気を張る分、こういう場所がないと持たない」
言い訳のない、正直な声だった。
エルフリーデは、頷く。
「分かります」
短く。
「だから、ここだけ違うんですね」
ルーカスは、苦笑する。
「君が入ることになるとは、思ってなかった」
「……嫌でしたか」
試す調子ではない。
確認だった。
ルーカスは、即座に首を振る。
「違う」
はっきりと。
「隠したいというより」
少し言葉を探す。
「評価される場所じゃないと思っていた」
エルフリーデは、彼を見る。
「評価は、していません」
静かに。
「知っただけです」
その一言で、ルーカスの肩がわずかに緩んだ。
外で、使用人の声が聞こえる。
「確認が取れました。すでに外へ出たようです」
「ありがとう」
ルーカスが答える。
扉を開ける前、
エルフリーデはもう一度、部屋を振り返った。
灯り。
クッション。
香り。
「……この部屋」
小さく言う。
「好きです」
ルーカスは、少しだけ驚いた顔をしてから、
困ったように笑った。
「それは……」
言葉を探してから。
「予想外だな」
廊下へ戻る。
屋敷の空気に戻っても、
異国の灯りの残像は、しばらく消えなかった。
エルフリーデの中には、
新しいルーカスの輪郭が、静かに残っている。
そしてルーカスもまた。
自分だけの場所を、
否定されなかったという事実を、
ゆっくりと受け止めていた。




