初めての仕事
商会の建物は、掲示板の札から想像していたよりも古かった。
外壁は石造りだが、角は削れ、窓枠の木も年季が入っている。
だが、扉の蝶番や表札はきちんと手入れされていて、「潰れていない古さ」だと一目で分かる。
中に入ると、紙とインクの匂いが鼻をついた。
帳場の奥から、男が一人、顔を出す。
年配ではない。
かといって若くもない。
実務で擦れてきた、無駄のない目つき。
「……帳簿整理の件か」
問いというより、確認だった。
エルフリーデは鞄から、掲示板から剥がしてきた札を取り出し、男に見せる。
「はい。短期の募集を見て」
「名前は?」
一瞬、迷ってから答える。
「エルフリーデです」
姓は言わない。
男も、聞かなかった。
「三日だ。今日含めて」
「承知しました」
「経験は?」
「あります」
それ以上の説明はしない。
男は、ほんの一瞬だけ彼女を見たあと、奥の机を指で示した。
「まず、これだ」
積まれていたのは、帳簿が四冊。
契約書の束が二つ。
そして、紙質の違う書類が、無造作に混じっている。
――ああ。
心の中で、小さく理解する。
古い書式。
新しい書式。
途中で制度が変わった痕跡。
「今日は全部修正しなくていい」
男は言った。
「齟齬が出るところだけ、拾え」
試している。
エルフリーデは椅子に腰を下ろし、黙って一冊目を開いた。
頁をめくる指は迷わない。
日付。
金額。
単位。
署名欄。
噛み合っていない部分に、付箋を挟む。
――これは後で揉める。
――これは、今なら修正が利く。
――これは、責任の所在が曖昧。
ペンを取る。
勝手に書き換えない。
だが、余白に、短く補足を書く。
「この条文と矛盾」
「単位換算違い」
「確認要」
時間が経つにつれ、机の上の付箋は規則的に増えていった。
昼を告げる鐘が鳴っても、誰も声をかけない。
エルフリーデも、顔を上げない。
やがて。
「……今日は、ここまででいい」
声が落ちた。
最初に出迎えた男だった。
エルフリーデは、ペンを置く。
「はい」
男は、机の上を一瞥した。
付箋で分けられた帳簿。
順番を揃えられた契約書。
そして、最後に残された、“触っていない”束。
「……余計なことは、してないな」
「頼まれた範囲だけです」
「そうか」
男は、それ以上、何も言わなかった。
「明日も同じ時間に来い」
「承知しました」
それだけで、初日は終わった。
外に出ると、港町はまだ明るい。
初日なのに、妙な疲労感はなかった。
――ちゃんと、仕事だった。
誰にも怒鳴られず、
誰にも責められず、
ただ、終わらせただけ。
エルフリーデは、少しだけ歩調を緩めて、宿へ戻った。
そしてその夜。
商会の奥で、男が帳簿を一冊、開き直していた。
付箋の位置。
書かれた一言。
「……これは」
独り言のように呟く。
「ただの帳簿係じゃないな」




