聞きたい
連合商務調整局の執務棟から少し離れた通りを抜け、
二人は宿舎の前まで来ていた。
灯りは控えめで、人影もない。
昼の連邦とは別の顔をした、静かな夜。
自然と、足が止まる。
別れ際の、ほんの数歩手前。
エルフリーデは、外套の端を指先でつまんだまま、しばらく黙っていた。
迷っているというより、言葉の順番を選んでいる沈黙だった。
「……ルーカス様」
呼び止める声は、落ち着いていた。
震えはない。
ルーカスは、自然に立ち止まる。
「なに?」
振り返った表情は、いつも通りだ。
逃げも、構えもない。
エルフリーデは、一度だけ深く息を吸った。
「……聞いても、いいですか」
それは、確認だった。
許可を乞う声ではない。
ルーカスは、すぐには答えなかった。
だが、目を逸らすこともなかった。
「うん」
短く、はっきりと。
「君が聞きたいと思った時には、必ず話すって言っただろ」
エルフリーデは、ゆっくり頷く。
「……今日」
視線を、ほんの少しだけ伏せる。
「“もし”の話を聞いて、私、気づいてしまったんです」
顔を上げる。
「知らないままでいるのは、もう違う、って」
逃げでも、勢いでもない。
選び取った言葉だった。
「あなたが、何を捨てられる人なのか。
何を背負って、ここに立っているのか……知りたいです」
沈黙が落ちる。
夜の風が、二人の間を通り抜けた。
ルーカスは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに息を吐く。
「……分かった」
低い声。
「じゃあ、全部話す」
彼は、一歩だけ距離を取った。
見下ろすためでも、逃げるためでもない。
ただ、向き合う位置を整えるような動きだった。
「まず、名前からだ」
エルフリーデは、息を呑む。
「ルーカスは、偽名だ」
淡々と。
「本名は、ルートヴィヒ・フォン・レクシア・エーデルヴァイン」
その名を聞いた瞬間、
エルフリーデの中で、点だった情報が静かにつながる。
レクシア。
連邦内国。
王国。
(……まさか)
口に出る前に、彼が続けた。
「レクシア王国の第五王子だ」
一切、飾らない声。
「側室の子で、継承順位は低い。
表に立つ予定も、王位に関わる予定もない」
事実を並べるだけの口調。
「兄が王になる。
その後、僕は爵位を与えられて、政治の裏に回る――それが、本来の人生だった」
エルフリーデは、言葉を失っていた。
驚きはある。
だが、拒絶はなかった。
(……やっぱり)
心のどこかで、納得してしまっている自分がいた。
「連合商務調整局は――」
彼は、一度だけ視線を落とす。
「王族としてじゃなく、個人として関わっている。
立ち上げたのは僕だが、身分は伏せている」
正確な言い方だった。
「知っているのは、連邦上層部の一部と、王家だけだ」
エルフリーデは、静かに問いかける。
「……だから、礼を執られていたんですね」
「ああ」
否定しない。
「気づいた?」
「一瞬だけ」
正直な答え。
「……でも、確信はありませんでした」
ルーカスは、小さく笑った。
「それでいい」
そして、視線をまっすぐに向ける。
「ここからが、一番大事な話だ」
エルフリーデは、背筋を伸ばした。
「僕は、王子として君に近づいたわけじゃない」
静かに。
「君を選んだ理由に、身分も、政治も、計算もない」
一度、言葉を切る。
「ただ、エルフリーデだったからだ」
胸の奥が、きゅっと締まる。
「……一つだけ、はっきりさせておく」
静かな声。
「王女という居場所を、君に返すことはできない」
エルフリーデの指先が、わずかに動いた。
「でも」
一歩、距離が縮まる。
「誰のものでもなく、役割でもなく、
ただの君として生きる場所なら――」
夜の静けさの中で、言葉が落ちる。
「僕は、隣に立てる」
「僕は、君と一緒に生きたい」
逃げ場のない言葉。
だが、押し付けではない。
「それが今の立場を捨てることになっても」
「連邦を離れることになっても」
言葉は、揺るがなかった。
「それでも、選ぶ」
エルフリーデの喉が、わずかに鳴る。
「……それは」
声が、少しだけ掠れる。
「あまりにも、重い選択です」
ルーカスは、首を振る。
「重くしてるのは、立場だ」
穏やかに。
「君は、ただ答えればいい」
もう一歩、近づく。
「一緒に生きたいか、どうか」
沈黙。
長くはない。
逃げるための時間でもない。
エルフリーデは、ゆっくりと息を整えた。
そして、顔を上げる。
「……私」
言葉を選ばない。
「あなたが王子でも、統括官でも。そうでなくても」
「ルーカス様であることが、変わらないなら」
はっきりと。
「一緒に、生きたいです」
その瞬間、
ルーカスの肩から、目に見えて力が抜けた。
「……よかった」
小さく、そう呟く。
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「正式な話は、改めてする」
照れも、誤魔化しもなく。
「君が選ぶ未来に、最後まで隣にいる権利が欲しい。
……それが、僕の答えだ」
エルフリーデは、驚くほど静かに笑った。
「……はい」
それだけで、十分だった。
夜の連邦は、変わらず静かだ。
だが、二人の未来だけは、
もう、はっきりと形を持ち始めていた。




