全てを捨ててついていく
連合商務調整局の執務棟から少し離れた通りは、灯りが少なかった。
昼間の喧騒が引いた後の街は、音が間引かれている。
石畳に、二人分の足音。
エルフリーデは、隣を歩くルーカスを横目に見ていた。
今日一日、仕事はいつも通りだった。
問題も、トラブルもない。
――それなのに。
胸の奥に、薄い違和感が残っている。
「……ねえ。」
先に口を開いたのは、ルーカスだった。
「もし、の話をしてもいい?」
「もし、ですか。」
「うん。仮定の話。」
エルフリーデは、少し考えてから頷いた。
「構いません。」
二人は、通りの端で立ち止まる。
街灯の下。
影が、足元で重なった。
ルーカスは、前を見たまま言う。
「君がね、連邦を離れることになったら。」
エルフリーデは、瞬きをした。
「……どういう意味ですか。」
「仕事でも、事情でもいい。」
言葉を選ぶ声。
「理由は何でもいいから、ここを出るって決めたら。」
風が吹き、外套の裾が揺れる。
「僕は、ついていく。」
エルフリーデは、すぐに返事ができなかった。
冗談には聞こえない。
でも、命令でも、約束でもない。
「……それは。」
慎重に、言葉を探す。
「軽く言えることじゃ、ないと思います。」
ルーカスは、静かに頷いた。
「うん。」
否定しない。
「だから、今は“もし”の話。」
それでも。
「でもね。」
ほんの一歩、距離が詰まる。
逃げ場を塞ぐためではなく、言葉を届かせるための動きだった。
「その時は、仕事を辞める。」
エルフリーデは、思わず彼を見た。
「……局を?」
「うん。」
当たり前のことのように。
「ここに残る理由が、なくなるから。」
胸の奥が、少しだけざわつく。
連合商務調整局は、彼が深く関わっている場所だ。
誰よりも現場を知り、誰よりも責任を背負っている。
それを。
「……迷いませんか。」
小さく、問いかける。
ルーカスは、少しだけ考える素振りをした。
「迷うよ。」
正直な答え。
「でも、選ぶ。」
言い切るまでに、短い思考の整理があった。
「僕は、君の“これから”の方を選ぶ。」
重い。
でも、押し付けではない。
エルフリーデの喉が、かすかに鳴った。
「……私、そんな選択を。」
言いかけて、止める。
“させる資格があるのか”
そう言いかけた自分に、気づいてしまった。
ルーカスは、首を振る。
「君がさせるんじゃない。」
静かな否定。
「僕が、勝手に選ぶだけ。」
街灯の明かりが、彼の横顔を照らす。
「君は、ただ自分の行き先を決めればいい。」
言葉を区切り、はっきりと続ける。
「そこに、僕が行くかどうかは、僕の問題だ。」
その線引きが、あまりにも明確で。
エルフリーデは、胸の奥が少し苦しくなった。
「……もし。」
ようやく、言葉を出す。
「私が、連邦じゃない場所を選んだら。」
「うん。」
「静かなところで、誰にも見られずに暮らしたいって言ったら。」
ルーカスは、即答しなかった。
だが、目を逸らしもしなかった。
「それも、いいと思う。」
穏やかな声。
「朝起きて、窓を開けて、仕事がなければ散歩して。」
少しだけ、笑う。
「今より、ずっと健康的だ。」
エルフリーデは、思わず小さく笑った。
「……向いてない気がします。」
「最初はね。」
「……最初?」
「慣れる。」
断言。
その言い方が、あまりにも自然で。
「……ルーカス様。」
名前を呼ぶ。
「それ、ずいぶん先の話ですよね。」
「うん。」
「でも。」
言葉を選びながら、続ける。
「“いつか”の話としては、具体的すぎませんか。」
ルーカスは、少しだけ目を細めた。
「そうかも。」
認める。
「でも、君が“選ぶ”ってことを、ちゃんと現実にしたかった。」
エルフリーデは、しばらく黙った。
風の音。
遠くの足音。
「……もし。」
また、同じ言葉。
「私が、今のままを選んだら。」
「それも、選択だ。」
「それでも、隣にいますか。」
ルーカスは、迷わなかった。
「いる。」
短く。
「君がここにいるなら、僕もここにいる。」
それは、条件付きの言葉じゃない。
エルフリーデは、ゆっくりと息を吐いた。
(……この人)
(……何を、どこまで、捨てられる人なんだろう)
今まで、聞こうと思わなかった。
聞く必要がないと、思っていた。
でも。
胸の奥に、確かな芽が生まれる。
――知りたい。




