伏せられた肩書き
午前。
連合商務調整局の執務棟は、いつも通りの速度で回っていた。
書類の束が行き交い、指示が飛び、返答が返る。
過不足のないやり取り。
連邦らしい、効率優先の空気。
エルフリーデは、自分の席で書類に目を通していた。
視界の端で、誰かがルーカスに声をかける。
「局長、こちらを。」
「あとで回して。」
短い応答。
それ以上でも、それ以下でもない。
(……いつも通り)
それが、少し前までなら当たり前だった。
今は、ありがたいと感じる。
午前の中盤。
執務室の扉が開き、来客が通された。
年配の男だった。
連邦内国の使節――肩書きだけ聞けば、ただの調整役だ。
だが、身にまとっている空気が違う。
古い貴族特有の、無意識の上下感覚。
エルフリーデは、一瞬だけ視線を上げた。
(……あ)
男は、入室するなり、ルーカスを見た。
そして。
ほんの一瞬。
本当に、一瞬だけ。
――礼を、取った。
深くはない。
だが、明確に「目上」に向けた所作。
場の空気が、わずかに揺れる。
「……失礼」
男はすぐに姿勢を正し、何事もなかったかのように話を続ける。
「本日は、通商路再編に関する事前調整で参りました。」
ルーカスは、何も指摘しなかった。
「ああ。資料は?」
「こちらに。」
淡々と、業務に戻る。
誰も、その動作に触れない。
エルフリーデだけが、静かに理解した。
(……今の)
(……間違いじゃない)
視線を落とし、書類に戻る。
(……肩書きだけで説明できる立場じゃ、ない)
驚きは、ない。
納得の方が、先に来た。
午後。
会議が終わり、執務室が少し落ち着いた頃。
エルフリーデは、書類をまとめて立ち上がった。
「今日は、ここまでで。」
自然な声。
「了解です。」
返答も、自然。
廊下に出ると、ルーカスが追いついてくる。
「帰る?」
「はい。」
それだけの会話。
外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。
歩きながら、エルフリーデは考えていた。
聞くべきか。
今、聞くべきか。
(……いいえ)
違う、と直感が言った。
これは、詰問じゃない。
確認でもない。
※
夜。
執務棟から少し離れた通り。
昨日と同じ道。
同じ街灯。
同じ歩幅。
エルフリーデは、しばらく黙って歩いていたが、やがて口を開いた。
「……今日。」
「うん?」
「少し、驚きました。」
それだけ言う。
ルーカスは、歩みを止めなかった。
「なにに?」
「……いえ。」
夜風が、二人の間を抜ける。
ルーカスは、すぐには答えなかった。
だが、迷ってもいなかった。
「……君が。」
低い声。
「君が、聞きたいと思った時には。必ず、話すよ。」
それは条件でも、逃げでもない。
相手の意思を、最優先に置いた言葉だった。
エルフリーデは、小さく頷く。
「……それなら、いいです。」
それで、この話は終わった。
再び歩き出す。
並んで。
夜の連邦は、相変わらず静かだった。
だが、エルフリーデは思う。
(……知らなくても、いい時間がある)
(……でも)
(……知る日が来るのも、怖くない)
それは、先延ばしではなかった。
ちゃんと、向き合うための間だった。




