戻る場所
連合商務調整局の執務棟から少し離れた通りは、夜になると静かだった。
昼間の喧騒が嘘みたいに、人の気配が薄れる。
街灯の明かりが、石畳に淡く落ちている。
エルフリーデは、その道をルーカスと並んで歩いていた。
馬車を使うほどでもない距離。
急ぐ理由もない。
外套の裾が、わずかに揺れる。
「……今日」
歩きながら、エルフリーデが口を開いた。
「公爵家、行ってよかったです」
「うん」
短い返事。
「ずっと、どこかで引っかかってたので」
責任を果たした、というより。
整理が終わった、という感覚に近い。
ルーカスは、前を向いたまま言う。
「君は、ちゃんとやるべきことをやった」
評価ではない。
事実確認みたいな口調。
エルフリーデは、小さく息を吐いた。
「……不思議ですね」
「なにが?」
「全部終わったはずなのに、焦ってないんです」
以前なら、こういう時ほど落ち着かなかった。
次に備えなければ、何かを詰めなければ、取り戻さなければ。
「明日も仕事はあるのに」
「あるね」
「でも……怖くない」
言葉にして、初めて自覚した。
ルーカスは、少しだけ歩調を落とす。
自然に、彼女の半歩前から横に並ぶ位置へ。
「怖い理由が、減ったんじゃないかな」
「理由?」
「戻る場所が、分かってるから」
エルフリーデは、足を止めた。
ルーカスも止まる。
夜風が、二人の間を通り抜ける。
「……戻る、ですか」
「うん」
彼は、こちらを見る。
「君はもう、自分の居場所が仮だと思う前提で生きてない」
その言葉は、静かだった。
でも、深く刺さった。
エルフリーデは、少しだけ考えてから言った。
「……それは、こちらに来てからですね」
「そうだね」
「王宮にいた頃は」
言葉を探す。
「“いつか終わる場所”だと思ってました」
役目が終われば、切られる。
邪魔になれば、押し出される。
「ここは……」
視線を、街灯の向こうへ向ける。
「終わらせなくていい場所、です」
ルーカスは、何も言わなかった。
ただ、その言葉を否定しなかった。
しばらく、二人で歩く。
足音だけが、規則正しく響く。
やがて、エルフリーデがぽつりと呟いた。
「……この先も。」
「うん?」
「今みたいな日が、続くなら。私は、それでいいです」
欲張らない言葉だった。
でも、逃げでもなかった。
ルーカスは、立ち止まる。
完全に、彼女の方を向いた。
「エルフリーデ。」
名前を呼ぶ声が、低い。
「それは、“選んでる”ってことだ。」
エルフリーデは、少し驚いたように目を瞬かせる。
「……そう、ですか。」
「そうだよ。」
彼は、はっきり言った。
「流されてるんじゃない。妥協してるわけでもない。君は、自分の人生を“ここに置く”って決めてる」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(……ああ)
(……そうか)
誰かに決められた場所じゃない。
押し付けられた役割でもない。
自分で選んだ、今。
「……ルーカス様。」
「なに?」
「明日も、一緒に帰れますか。」
とても小さな願いだった。
でも、昔なら言えなかった。
「当たり前だろ。」
即答だった。
「僕がいない理由がない。」
それ以上の説明はない。
エルフリーデは、微笑んだ。
肩書きも、過去も、責任も。
今この瞬間には、関係ない。
夜の連邦は、静かだった。




