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最後の夜

夜の風は、昼よりも少し冷たかった。


宿の共用の居間、その大きな窓を開けると、

花畑の方から微かな香りが流れ込んでくる。

昼間の色は闇に溶け、輪郭だけが月明かりに浮かんでいた。


この部屋は、二つの寝室の間にある。

談話用に設えられた、広めの空間だ。


エルフリーデは、窓辺に立って外を眺めていた。

今日一日歩いたせいか、足にはほどよい疲れが残っている。


――嫌な疲れではない。


横になれば、自然に眠れる種類のものだ。


「寒くない?」


背後から、ルーカスの声。


振り向くと、彼は部屋の灯りを少し落とした位置に立っていた。

昼間と同じ、気取らない服装のまま。


「大丈夫です」


そう答えてから、少し考える。


「……心地いい、ですね」


自分でも意外な言葉だった。


ルーカスは、軽く頷く。


「ここ、夜は静かだ」


それだけ言って、

彼は窓の反対側、暖炉の近くに置かれた椅子に腰を下ろす。


近すぎない距離。

けれど、同じ空間にいると分かる距離。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


外では、虫の声が控えめに鳴いている。

花畑の方から、風に揺れる音。


「……明日、帰りますね」


エルフリーデが、静かに言った。


確認ではない。

予定の再確認でもない。


ただ、事実を口にしただけだった。


「うん」


ルーカスも、同じ調子で答える。


「連邦に戻る」


「はい」


言葉にしても、胸がざわつかない。


(……戻れる)


そう、自然に思えている。


「花の国、どうだった?」


少し間を置いて、ルーカスが聞いた。


エルフリーデは、窓の外を見たまま答える。


「……ちゃんと、楽しかったです」


即答だった。


「歩いて、疲れて、休んで」


その日の流れを、静かに思い返す。


「それで、終わり」


ルーカスは、小さく笑った。


「いい旅行だ」


「はい」


同意する。


「仕事でも、視察でもなくて」


「“過ごした”感じが、します」


その言葉に、ルーカスは何も返さなかった。

ただ、静かに頷く。


彼も、同じ感覚なのだと分かる。


エルフリーデは、ふと視線を落とす。


「……連邦に戻ったら」


言葉を選びながら続ける。


「また、いつもの仕事に戻ります」


無理はしない。

調整された分量。

自分で選んだペース。


「それで、いいんですよね」


確認というより、共有だった。


「もちろん」


迷いのない声。


「それが普通だ」


その“普通”という言葉が、今はちゃんと信じられる。


花の国の夜は、何かを変えたわけじゃない。

新しい決意を生んだわけでもない。


ただ。


「……また、来たいですね」


ぽつりと、そんな言葉が零れた。


ルーカスは、少しだけ目を細める。


「今度は、もっと余裕のある時に」


「はい」


二人で、同じ未来を想定している。

それだけで、十分だった。


やがて、ルーカスが立ち上がる。


「そろそろ、休もうか」


「はい」


灯りを落とす。


窓を閉めると、外の音が少し遠くなる。


居間を出る手前で、ルーカスは自然に進路を分けた。

彼は右手の扉へ。

エルフリーデは、反対側の寝室へ向かう。


廊下に、足音が二つ。


それぞれの部屋に入る気配が、静かに分かれた。


ベッドに入る前、エルフリーデはもう一度だけ思った。


――王女でもなく

――役職でもなく


ここでは、ただ一人の人間として過ごした。


それを、否定されることも、利用されることもなかった。


花の国の夜は、静かで、短い。


けれど。


この穏やかさは、

ちゃんと持ち帰れると、分かっている。


隣の部屋の物音が消えたのを感じながら、

エルフリーデは、自然に目を閉じた。


明日は、帰路。


でも――

何かを失うためじゃない。


ちゃんと、自分の場所へ戻るための朝だった。

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