何もしない一日
朝の空気は、少しひんやりしていた。
宿の窓を開けると、花の香りがふわりと流れ込んでくる。
市場の喧騒はまだ遠く、街は静かだった。
エルフリーデは、窓辺に置いた鉢植えに目をやる。
昨日買った、小さな野花。
水をやるほどでもない。
ただ、ちゃんとそこに咲いている。
(……朝だ)
それだけで、少し安心した。
「起きてる?」
ドアの向こうから、声。
扉を開けると、ルーカスが立っていた。
旅装のまま、だが堅苦しさはない。
「はい。もう少しで」
「急がなくていい」
そう言って、彼はドア枠にもたれる。
「今日は、どこ行く?」
昨日と同じ問い。
エルフリーデは、一瞬考えてから答えた。
「……歩いてみたいです」
「歩く?」
「はい。目的は、決めなくて」
ルーカスは、わずかに眉尻を下げてから頷いた。
「いいね」
それだけで、話は終わった。
※
街道沿いを、二人で歩く。
観光客向けの通りを外れると、
花畑と畑と、低い家が点々と続く。
石垣に絡まる花。
窓辺に吊るされた乾燥花。
洗濯物の間から覗く、色のある布。
川を流れていく、花びら。
「……この国、花が生活に溶け込んでますね」
「育てやすいらしい」
ルーカスは、何でもない調子で言う。
「土がいい。気候も安定してる」
「だから、花の国なんですね」
「そうだね」
詳しく語らない。
知識をひけらかさない。
それが、心地いい。
しばらく歩く。
途中でパン屋に寄り、
焼きたての小さなパンを分け合った。
道端の石に腰掛け、
風を感じながら、黙って食べる。
「……こういうの」
エルフリーデが、ぽつりと言う。
「不思議です」
「なにが?」
「急がなくても、いい時間」
ルーカスは、少しだけ考えてから答えた。
「慣れてないだけだよ」
「……慣れますか」
「慣れる」
即答。
「慣れていい」
その言葉が、胸に残る。
※
昼を過ぎてからも、歩いた。
丘を一つ越え、緩やかな道を下り、また花畑の縁に出る。
気づけば、思ったより距離を歩いていた。
エルフリーデは、足を止める。
「……あ」
声は小さい。
「少し、疲れました」
自分で言えたことに、ほんの一瞬、驚く。
昔なら、黙っていた。
倒れるまで、何も言わなかった。
ルーカスは、即座に足を止めた。
「ここまでだね」
確認もしない。
理由も聞かない。
近くの石垣に目をやる。
「座れる」
そう言って、先に腰を下ろす。
エルフリーデも、隣に座った。
風が、花を揺らす。
呼吸が、ゆっくり戻ってくる。
「……すみません」
反射で出かけた言葉を、途中で止める。
代わりに。
「……言って、よかったです」
小さく、そう言った。
ルーカスは、頷く。
「うん」
それだけ。
叱らない。
評価もしない。
ただ、事実として受け取る。
エルフリーデは、空を見上げた。
雲が、ゆっくり流れている。
(……止まっても、いい)
(……予定、壊れてない)
その感覚が、じわじわ効いてくる。
「今日は、ここまでにしよう」
ルーカスが言う。
「宿に戻って、休もう」
「……はい」
素直に、頷けた。
※
夕方の風が、少し冷たくなった頃。
帰り道は、ゆっくりだった。
来た道を戻るだけ。
新しい景色は、ない。
それでも。
「……今日」
歩きながら、エルフリーデが言う。
「何か、しましたかね」
ルーカスは、少し考える。
「歩いた」
「……それだけ?」
「それだけ」
小さく笑う。
「でも、十分だと思う」
エルフリーデも、つられて笑った。
宿が見えてくる。
夕方の光が、建物を染める。
部屋に戻ったら、また鉢植えに目をやって、お茶を飲んで、早めに休むだけ。
それなのに。
胸の奥が、満ちている。
(……明日も)
(……こうだったら、いいな)
そんなことを、自然に思っている自分に気づく。
ただ歩いて、少し疲れて、一緒に戻る。
――それが、今の彼女には十分だった。
それだけの一日。
でも。
そこにルーカスがいない光景は、思い浮かばなかった。




