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何もしない一日

朝の空気は、少しひんやりしていた。


宿の窓を開けると、花の香りがふわりと流れ込んでくる。

市場の喧騒はまだ遠く、街は静かだった。


エルフリーデは、窓辺に置いた鉢植えに目をやる。

昨日買った、小さな野花。


水をやるほどでもない。

ただ、ちゃんとそこに咲いている。


(……朝だ)


それだけで、少し安心した。


「起きてる?」


ドアの向こうから、声。


扉を開けると、ルーカスが立っていた。

旅装のまま、だが堅苦しさはない。


「はい。もう少しで」


「急がなくていい」


そう言って、彼はドア枠にもたれる。


「今日は、どこ行く?」


昨日と同じ問い。


エルフリーデは、一瞬考えてから答えた。


「……歩いてみたいです」


「歩く?」


「はい。目的は、決めなくて」


ルーカスは、わずかに眉尻を下げてから頷いた。


「いいね」


それだけで、話は終わった。



街道沿いを、二人で歩く。


観光客向けの通りを外れると、

花畑と畑と、低い家が点々と続く。


石垣に絡まる花。

窓辺に吊るされた乾燥花。

洗濯物の間から覗く、色のある布。

川を流れていく、花びら。


「……この国、花が生活に溶け込んでますね」


「育てやすいらしい」


ルーカスは、何でもない調子で言う。


「土がいい。気候も安定してる」


「だから、花の国なんですね」


「そうだね」


詳しく語らない。

知識をひけらかさない。


それが、心地いい。


しばらく歩く。


途中でパン屋に寄り、

焼きたての小さなパンを分け合った。


道端の石に腰掛け、

風を感じながら、黙って食べる。


「……こういうの」


エルフリーデが、ぽつりと言う。


「不思議です」


「なにが?」


「急がなくても、いい時間」


ルーカスは、少しだけ考えてから答えた。


「慣れてないだけだよ」


「……慣れますか」


「慣れる」


即答。


「慣れていい」


その言葉が、胸に残る。



昼を過ぎてからも、歩いた。


丘を一つ越え、緩やかな道を下り、また花畑の縁に出る。


気づけば、思ったより距離を歩いていた。


エルフリーデは、足を止める。


「……あ」


声は小さい。


「少し、疲れました」


自分で言えたことに、ほんの一瞬、驚く。


昔なら、黙っていた。

倒れるまで、何も言わなかった。


ルーカスは、即座に足を止めた。


「ここまでだね」


確認もしない。

理由も聞かない。


近くの石垣に目をやる。


「座れる」


そう言って、先に腰を下ろす。


エルフリーデも、隣に座った。


風が、花を揺らす。


呼吸が、ゆっくり戻ってくる。


「……すみません」


反射で出かけた言葉を、途中で止める。


代わりに。


「……言って、よかったです」


小さく、そう言った。


ルーカスは、頷く。


「うん」


それだけ。


叱らない。

評価もしない。


ただ、事実として受け取る。


エルフリーデは、空を見上げた。


雲が、ゆっくり流れている。


(……止まっても、いい)


(……予定、壊れてない)


その感覚が、じわじわ効いてくる。


「今日は、ここまでにしよう」


ルーカスが言う。


「宿に戻って、休もう」


「……はい」


素直に、頷けた。



夕方の風が、少し冷たくなった頃。


帰り道は、ゆっくりだった。


来た道を戻るだけ。

新しい景色は、ない。


それでも。


「……今日」


歩きながら、エルフリーデが言う。


「何か、しましたかね」


ルーカスは、少し考える。


「歩いた」


「……それだけ?」


「それだけ」


小さく笑う。


「でも、十分だと思う」


エルフリーデも、つられて笑った。


宿が見えてくる。


夕方の光が、建物を染める。


部屋に戻ったら、また鉢植えに目をやって、お茶を飲んで、早めに休むだけ。


それなのに。


胸の奥が、満ちている。


(……明日も)


(……こうだったら、いいな)


そんなことを、自然に思っている自分に気づく。


ただ歩いて、少し疲れて、一緒に戻る。


――それが、今の彼女には十分だった。


それだけの一日。


でも。


そこにルーカスがいない光景は、思い浮かばなかった。


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― 新着の感想 ―
本来ならそれなりの立場でそれなりに忙しいはずのルーカスが、王宮からの救出以降ずっとエルフリーデ一人の療養に一日中べったり付き添っているこの状況について、エルフリーデ当人が疑問に思っているのかいないのか…
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